「あっ、アレっスね、先輩」
駅前の商店街を抜けた先には、ちょっとした川が流れていて、そちらの方向に二人の男が歩いている。話しかけた男はしたたかに酔っぱらった風情で、いっぽうの先輩と呼ばれたスーツ姿のほうがシラフであるらしいのと、一対をなしている。年格好は二五の上下あたりだろうか。先輩後輩という間柄なのだろうが、歳の差はあまりなさそうだ。
「おう、そうだよ。おい、危ない、危ないよニシダっ。そっち行くな」
と『先輩』が声をかけるが『ニシダ』のほうでは意にも介していないようで、雑踏の中、ふらふらと足もとが定まらない。前から歩いてきた学生らしい女にぶつかって、エラい顔でにらまれたりしている。謝るのは先輩の役目だ。
私はたまたま、この二人と方向が同じだったので、なんともいたしかたなく見知らぬ二人の後ろを歩くことになっている。歩く速は私のほうが少し速いのだが、少し速いだけなので、なかなか追い抜けないのだ。私はしかたなく、歩く速度をすこし落とした。もう夜も遅い。早く下宿に帰って寝たいのだが。
「ひゃー。いいクルマっスねえ」
ニシダが指差して『カカタイショウ』と笑ったのは道端に誰かが乗り捨てた自転車だ。
「それじゃねえよバカ」
「それじゃ、アレっスか。あっちじゃないっスよねえ」
「違うって。あれだよ。あの赤い車。あれがオレの」
「アレですかー。ふひゃー」
ニシダが大げさに騒ぐ。その『赤い車』は、小川にかかっている橋の上に駐車してあった。私には車種はよくわからないが、結構なスポーツカーに見える。
「ふひゃー」
「うるさいな」
ニシダは酔うとこういう人間なので、先輩はちょっとイライラしているらしい。まったくの想像で書くのだが、先輩は酒が飲めなくて、これから二人で先輩の車で帰るところでもあろうか。あるいは、もしかして先輩はニシダに電話で呼びだされちゃったのかもしれない。どっちにしてもそれは不機嫌だろう。私はやや歩く速度を落としたので、彼らからはすこし距離が開いたのだが、なにしろ大声なのでいやおうなく会話が聞こえてくる。
「ふひゃー」
ニシダはまたそう言った。どうも『そういう笑い方をする人』であるらしい。
「ふひゃー。あれ、先輩。ふひゅぁー」
「なんだよ」
「ニンジャナンバーじゃないっスかーっ」
ははあん。私も、まだ少し先に停めてある先輩の車を注視した。確かにその車のナンバーには、緑色の半透明のプラスチック板が取り付けてあるのだった。『ニンジャナンバー』と呼ばれている道具だ。
「流行りましたよねえ、むかしー。これで警察の、アレ、アレ」
「知らねえよバカ」
中腹を立てている先輩の代わりに私が説明すると、警察の自動取締装置、オービスというものがあるのだが、それに対抗する製品なのだそうである。原理はよくわからない。いずれ赤外線領域で不透明な材料なのだろう。オービスでは、夜や悪天候でも違反者車両のナンバーが写真に映るように赤外線写真を使っているわけだが、このカバーをつけるとナンバーが黒く写るのだ。これを誰が呼んだか『ニンジャナンバー』というのだそうである。ナンバーさえ写らなければ捕まらないもの、らしい。
「てけててっててー、てってってー」
「歌うなよっ」
ああ。『忍者ハットリ君』のテーマソングだ。
「ニンジャ・ハットリカンゾーただいま参上っ。いやーっ。格好いいっス。センパイの車がニンジャだったとはー」
と『先輩』をカタカナ書きにしてみるのだった。いや、そんな言い方だったのだ。
「出身はイガの里でござるか。ニンニン」
「…」
「でも赤いから『シンゾー君』かも知んないっスね」
「……」
「忍法路上駐車でござる。ニンニン」
と、無言のセンパイを気にした風もなく、ニシダは指で印を結んだりしている。
「これで本当に警察に捕まらないでござるかセンパイうじ」
なにやらぶつぶつ言っているのだった。
「あっ」
という声を残して、突然だっとセンパイが駆け出したので、私はびっくりした。ついにニシダに愛想を尽かしたのだろうか。ニシダを商店街に置き去りにする気か。
「忍法『影走り』はずるいでござる。拙者ちくわが好きでござるよニンニン」
馬鹿なことをいいながらニシダが追いかける。だいたい、ちくわが好きなのは忍犬『獅子丸』じゃなかったろうか。距離が離れたので、何といっているのか聞き逃したが、二人はセンパイの車の前に回り込んで何かを見ている。どうしたのだろう。私は少しだけ足を早めた。
「ニンジャも寝込みを襲われてはカタ無しでござるな」
やっと、ニシダがそんなことを言っているのが聞こえたのは、私が二人の横を通り過ぎる直前だった。私は、悪いと思いながら、通りすがりにそっと覗き込んでみた。赤い車のフロントグリルのところに、黄色いプラスチックっぽい輪っかがはめられている。ああ、なるほど、駐車違反か。
「なあ」
通り過ぎた私の背後で、センパイがつぶやいた。
「物は相談なんだが」
罰金のことだろうか。暗い声でそう切り出したセンパイに、ニシダは、妙に明るい声で、こう言ったのだった。
「ニンジャのオキテは非情でござるよ。ニンともカンとも」
真の忍者への道は限りなく遠い。がんばれセンパイ。負けるなニシダ。そして、なんだか疲れたので早く帰ろう、私。