旗はどっちに出ている

 自分で言うのはおかしなことだが、私は素直な子供だったので、基本的な部分で「大人がすることは正しい」と信じていた。私の子供時代がじゅうぶん幸せなものだったからだろうし、親や担任の先生などの周りの大人たちに、公平に見て、そんなにヘンな人がいなかったということも関係しているかもしれない。今にして思えば、ウェブ上で嘘ばかり書いたり休みのたびに独りで温泉にでかけて行く叔父の一人や二人、いたほうが私の人格形成上良かったと思うのだが(注記:特定のモデルはありません)、ともかく私は、ある時点まで、世界はよく考えられて正しく運営されている、と思っていたわけである。

 しかし、もちろん残念ながら現実には世界はそのようなものではなく、だから私もどこかの時点でそのことに気づくことになる。そのきっかけの一つが、小学生の私の通学路上にあるとき設置された「横断旗」だったと思う。

 私が小学校に通う経路の中で、一箇所、道路を横断するところがある。道幅は狭く、交通量もそれほど多くないのだが、それゆえ横断歩道に信号機がついていないので、危ないといえば危ない。ある春、交通安全運動の一環としてだと思うが、その横断歩道に横断旗が設置された。横断歩道の両はじ、カーブミラーかなにかに結わえ付けるようにしてブリキの箱が設置され、そこに十本ほどの小さな黄色い旗が置かれたのだ。自由に使って構わない、むしろ横断時には積極的に使うように、という通達が、小学校の担任の先生を通じてあったことを覚えている。

 人間には二種類ある。こういう旗を掲げるのが大好きな人間と、恥ずかしいと思う人間である。多くの小学生男子がそうであるように良かれ悪しかれ私は前者だったので、その横断歩道をわたるたび、喜んで横断旗を使い始めた。箱から旗を一本取って、前に差し出す。そうして往来の車に小学生が道を渡ろうとしていることを知らせて、安全に道を渡る。そして最後に、横断歩道を渡り終わったところにある箱に旗を返すのだ。もともと、車の通行を一時遮断してまで渡らねばならない交通量ではないので、これでどれだけ安全になるかわからないのだが、そこのところ、当時は特に疑問は抱かなかったと思う。

 ところが、それから三日経って、私はこのシステムに、重大な欠陥があることを発見した。どうも、旗が片側の箱に集中しやすいのだ。それも、常に反対側、私が横断旗を必要とするのと反対の側に、旗がぜんぶ集まっていることが多い。

「なぜそうなるか」はすぐわかった。実は、私の小学校では、登校時は集団登校が採用されている。集団登校中は、必要ないので横断旗は使わない(もともと、集団登校の班の班長さんが大きな通行旗を持っている)。児童一人ひとりが横断旗を使うのは下校時だけなのだが、そうすると当然、旗が小学校から遠いほうの側に溜まるのである。たまには学校の行き帰り以外の用事、たとえば友達の家に遊びに行くときに旗を使う子供もいるだろうが、それは帰りも使うわけで、需要のバランスは改善しない。

 要するに、横断歩道の両端に旗を設置しておけば、適当に旗の本数は等分になるだろう、という見込みが、まったく外れているのだった。もちろん、一般には横断歩道をこっちから向こうに渡る人数と、向こうからこっちに渡る人数はほぼ等しい。そのはずである。しかし、もしその「ほぼ」の中にちょっとでも非対称があれば、旗はすぐ片方に寄ってしまうのも確かである。たとえば「向こう」に渡るときに旗を使い、帰ってくるときには使わない人がいたとする。あるいは、帰りは別のルートを使うというのもありそうなことだ。ここで、たった一人そういう人がいるだけで、片側に十本あった旗は二週間で片方に寄ってしまうのである。

 あるいはこうも言えるだろう。私の通学路のような明らかな非対称がないとしても、一般には、長年の間、行き人数と帰り人数がぴたりと一致することはない。それは、大きな二つの数があったときに、その二つがぴったり同じであることはめったにない、という単純な理屈による。何か強制的に両側の本数を同じにする力が働かないかぎり、逆さに立てたホウキのごとく、バランスはどちらかに崩れて、戻ってこないのだ。たぶん、これこそ「世界の仕組み」というものではないかと思う。

 と、今回そんなことを思い出したのは、年を経て、あの純粋さをすっかり失い、こんなところに就職している今の私の、職場のロッカーに雨傘が四本もあるのを発見したからである。この傘をめぐる状況は、横断旗によく似ている。行きに雨が降っている確率と、帰りに雨が降っている確率はたぶん似たようなものだろう(夏場は夕立がやや多い、ということは言えるはずだが、とりあえず置くとして)。そうであれば傘は家と職場、どっちにも偏らないはずなのだが、どうしてだかこうなるのだ。

 たぶんこっちの方の非対称は、こんなだろう。朝、天気予報で「今日は雨」と言われたら、そのとき降っていなくても傘を持ってゆく。しかし、夕方「明日は雨」という予報を聞いても、そのとき雨が降っていないのであれば、傘を持って帰ろうとはあまり思わない。どちらもそう頻繁にあることではないが、一年、二年するうち、傘は職場に偏ってゆく。

 傘なんかは安いものなので必要なときにコンビニかどこかで調達してもいいのだが、これだけ溜まるとちょっと思う。これはいかんのではないかと。何か間違っているのではないかと。だいたい、置き傘なんかは一本でいい。傘を五本も持っていたとしても、どちらかといえば家にたくさんあるほうが使い勝手がいいのだ。しかし、そうはいっても、晴れているのに傘を、しかも二本も三本も持って帰るというのも、なかなか勇気がいることなのだった。

 昔の私はどうしたかというと、その後、横断旗分布を少しでも元の状態に近づけるため、登校時に何本も旗を持って渡る、ということをやったりもしたのだが、それもそんなには続かなかった。いろいろな理由で旗の本数が減ってゆき、半年ほどで一本残らずなくなってしまったのである。なくなった旗を監視して、適当に補充するような、手間も予算もなかったのだろう。それからかなり長い間、二つの箱だけが狛犬よろしく横断歩道を挟んで残っていたのを覚えている。私は、使い方に非対称が出るのも、旗が減るのも、全部子供のせいだと思っていたので、たいへんに心が痛んだ。

 今になって思うのだが、それは本質的には子供たちには責任のないことであって、悪いのは計画が甘かった大人たちである。いや、そうも言えないかもしれない。すべて「世界の仕組み」、この世界のなりたちに数学的なからくりとして刻み込まれた法則であって、大人たちにもどうしようもないことだったのかも。少なくとも、傘の分布に困惑している今の私に、ふるさとの大人たちを批判する資格はないような気がするのである。


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