時計は止まっているか

 はじめまして。いつも楽しく拝見しております。

 このたび、番組で平井堅さんの「大きな古時計」を聞きまして、どうしても疑問に思うことが出て参りまして、こうして質問のお手紙を差し上げております。筋違いかと思える質問をすることになりますが、どうかご笑読いただけましたら幸いです。

「大きな古時計」の一番の歌詞は、こういうものです(ここでは、保富康午さんの訳詞に限って話をさせていただきます)。

「大きなのっぽの古時計 おじいさんの時計
 百年いつも動いてた ご自慢の時計さ
 おじいさんの生まれた朝に 買ってきた時計さ
 いまはもう動かない その時計」

 つまり「背の高い古時計が、亡くなったおじいさんと共に百年間動き続け、止まった」。素直なイメージをするならば、事実として、こういうことがあった、という印象を受けるのではないかと思います。赤ん坊だったおじいさんと一緒に我が家にやってきた時計が、ずっと動き続け、おじいさんの死と同時に止まった。こういうことです。

 しかしこれは正しいでしょうか。確かに、のっぽの古時計が動き始めた時のことは明記してあります。それはおじいさんの生まれた朝であり、それ以後百年間ずっと、止まらずに動いていたのです。そこに疑問はありません。しかし、止まった時はいつなのか。百年間動いた後、「今はもう動かない」わけですから、過去の、どこかの時点で止まったはずです。三つの場合が考えられるでしょう。
  1.おじいさんが亡くなる前に時計が止まってしまった。
  2.おじいさんが亡くなると同時に時計が止まった。
  3.おじいさんが亡くなってからしばらくして時計が止まった。
 先ほども書いた通り、一見して2しかありえないように思います。この歌は、おじいさんとともに生き、死んだ時計のことを、このちょっとした奇跡のことを歌ったものである、と。しかし、少なくとも一番の歌詞には、1と3の可能性を否定するような言葉は書いてありません。やってきたのは「おじいさんの生まれた朝」ですが、時計が止まったのはいつでもよいのです(「動き始めてから百年より後、ですが、それと祖父の死の前後関係は不明です)。

 私は、なにも歌詞の揚げ足を取ろうとしてこのようなことを書いているのではありません。詩的に考えて、どの解釈がもっともらしいか、それは直感的に考える「2」ではないのではないか、という疑問をぶつけたいのです。おじいさんと時計の停止は決して同時ではないのではないか、より端的には、2よりも、明記はしていないけれども、3が正しいのではないかと思っているのです。

 私がこのように考えたのは、今回、番組でフルコーラスを聞き、三番の歌詞を知ったからです。恥ずかしながら、私は今回、はじめて三番の歌詞を知りました(私の小学校では二番までしか教えてくれなかったのです。

「真夜中にベルが鳴った おじいさんの時計
 お別れの時が来たのを 皆に教えたのさ
 天国へ昇るおじいさん 時計ともお別れ

 ここでも、2に沿った解釈は可能です。おじいさんが亡くなった夜に、突然ベルが鳴った時計が、そこで動きを止めた、そういうふうに考えられます。屁理屈をこねるならば、「真夜中」が「おじいさんの亡くなった夜」かどうかはわかりませんし、「皆に教え」て、その後時計が止まったと書いてあるわけではないのですが、しかし、素直には「夜中にベルが鳴り、おじいさんも時計も『死』を迎えた」と受け取るものでしょう。

 しかし、そこで私は思ったのです。だとすればこれは「時計ともお別れ」ではないのではないか、と。

 時計とともにおじいさんが息をひきとったのであれば、それは「お別れ」ではありません。時計に魂があるかどうかわかりませんが、共に生き、共に亡くなった時計とともに、おじいさんは天国に昇るのではないでしょうか。しかし、歌は「お別れである」と主張します。私はつまり、ここにこだわって「それでは、亡くなった祖父を時計は見送ったのではないか」と思ってしまうのです。

 野暮なことを書くようですが、時計というものは、壊れた部品を取り替え、油を差し、ネジを巻けばいつまでも動くものです。買ってきたばかりの、新品の状態と、いつか動かなくなり「死んだ」状態、その二つしかないわけではありません。その意味では、この歌はおじいさんの一生と時計の「一生」を対比させたものではありますが、そうしたアナロジーが成り立たないものではあるのです。片方はいつか必ず終わりを迎えるものですが(きれいな花嫁を迎え、充実したものであると思いますが、それでもいつかは)、他方は、基本的に半永久的に存在できるモノなのです。

 しかしここで、「今はもう動かない」と歌は言います。そこにあるのは壊れた時計ではなく、もう面倒を見る人がいなくなったという事実、時計のことを気にかけ、手間を費やして動かしてきた人がいなくなったという、その悲しい事実ではないでしょうか。2の「おじいさんと一緒に時計が止まったよ、びっくりだね」という視点からは、この、主をなくした時計、その存在自体は半永久的だけど、しかし省みられなくなることによってゆっくりと世界から消えて行く、この無機物の悲しさは欠落しているように思います。

 もしかして、私はだれ一人気にしないことを書いているのかも知れません。それとも、もしかしたら、「おじいさんと時計が共に生き、死んだ」という解釈が大前提だと思っているのも私だけで、他のひとはみんな、あっというまにこの結論にたどり着いており、私は二〇年以上をかけてやっとそれに追いついただけなのかも。しかし、もしそうでないのなら、この視点は「ちょっとした奇跡」だけに目をうばわれている人に、ぜひ気が付いて欲しい観点だと思うのです。

 本当に、どちらなのでしょう。私が知りたいのは「詞を書いた人がそう思っていたかどうか」ではありません。むしろ、大ヒットしたこの曲を聞いた多くの人々が、どのように思っていたかなのです。

 ただ、それが気になるのです。


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