説明する世界

「説明業」というのはどうだろうか。

 見よ。壁には看板や張り紙があり、チラシはティッシュに乗せて配られる。耳には街頭スピーカーの語りかける声が聞こえ、自動車の背中には「赤ちゃんが乗っています」のステッカーが貼られている。ふだん街で出会う数多くのメッセージは、広告がそのかなりの部分を占めているのは確かだが、そればかりというわけではない。いや、あらゆる広告をばっさり除いてしまえば、むしろほぼ全てが「説明」であるということもできる。なにしろ広告だって一種の説明だといえないことはない。

 けだし、電車の切符には切符の説明が、ガムの包み紙にはガムの説明が書かれている。携帯電話を買うと分厚い説明書がついてきて、それでも足りなければ裏蓋を開けると隠れていた説明がちまちまと書かれている。「大声ではっきりと」が広告の特徴なら「小さくびっしりと」が説明の特徴ではないかと思うが、それに限るものではない。ゴミを捨ててよい日と種類、食券を自販機で買ってから並ぶ食堂のシステム、アニメは部屋を明るくしてテレビから離れて見るべきことなど、大声の説明もまた、この世界にはあふれているのである。これ以上、何が悲しくて説明か。

 さにあらず、それら説明は、消費者が本当に必要としている説明とは、微妙に異なるように思うのである。ここでまず断っておかねばならないが、説明と解説は違う。複雑な状況を分かりやすく教える人、どうやって使ったらいいのか教える人はたくさんいるが、それは解説者であり「説明者」ではないのだ。また、そういえば、この文章も、私の思想を説明したものと言えるが、もちろんこんなものが誰かから求められているわけがない。私が説明したくて説明しているのであり、いわば無駄な説明が世界にまた一つ増えただけのことである。それでは、説明のプロである説明師による、みんなに求められている説明、解説ではなく説明、こんな雑文ではない説明とはなんであるか。

 説明師とは、説明しにくいことを説明する人間である。ふつう、人々は、その地位に、その職業に必要とされる業務をうまくこなすことをもってプロと認められ、給料をもらっている。機長や船長は飛行機や船の安全な運行が本務であり、社長は会社の切り盛りが本業である。そういうことであれば、なんらかの不祥事や事故が起きた場合、その善後策をすばやく検討し、実施するのが任務なのであって、乗客なり、顧客なり、社員なりに説明することは本来後回しにすべき事柄である。いや、実際にはそんなことはないのだが、そうであるべきではないか。

 たとえば、軍艦の場合、乗組員が「今の衝撃はなんですか、まさかこのフネに魚雷が命中したんじゃあ」「沈むんですね」「沈む可能性はどれくらいですかいつ沈むんですか」「救命ボートは足りますか」「沈没手当はもらえますか」などと説明を求めていては、さっぱり戦えない。軍人なので、そのへんのことは艦長以下軍艦の幹部が考えてくれているはずだととりあえず期待しておいて、自分の仕事を黙々とこなすことが求められるのである。しかし、旅客機や客船の乗客や、会社の顧客や株主となるとそうはいかない。彼らは客であり、客といえばある意味でいちばん偉い存在であり、説明はしないといけないのである。責任者が一番忙しいそのときに。

 これだけでも「説明師」の存在理由はあるような気がするが、しかもその説明も、ただ説明すればいいというものではない。去年一年間になされた、ええと、産地が偽装だったり牛肉が偽装だったり原発の点検が偽装だったりした説明の数々で、納得できたものがどれくらいあったろうか。歯切れが悪いとか、都合の悪いことを隠している感じがするとか、そういう感じの説明が多かったではないか。そういう場合、常に巷間には「説明を求める人々」があふれ返っていたのではないか。

 このお正月のこと、フェリーの漂流事故というものがあった。北海道を出たフェリーが、航海中にエンジンの故障を起こして、漂流を始めてしまったのだ。乗客がそのことを知ったのはずいぶん遅く、船内に放映されているテレビのニュースを見てからだった、ということなのだが、これなど説明としては最悪の状況である。ひとはとにかく説明を求めるものであり、しかもそれがテレビからやってきてほしくないなと思っているのである。

 しかも、結局どこかで説明はされたらしいのだが、こんな感じであったらしい。読売新聞の記事の引用だが、

 乗客の話によると、5日の漂流中、船長から「生命の危険もある」というアナウンスがあり、乗客からは「そんな危ない船に乗っていられるか」などと怒りの声も上がったという。

 説明を求められたので、正直にこたえたら、こういうことを言われてしまうわけで、いやもう、本当に「乗ってられるか」という気持ちはわかるしもし私も乗客としてそこにいたらそう言ったに決まっているのだが、それでもこの一件からこういうことがわかる。正直に何でも言えばよいというものではない。

 そこで説明業である。プロである説明師は違う。説明師は説明する。もっとも説明しにくいことを、説明を求めてやってきた人が満足するように、しかしあけすけ過ぎて逆に怒り出さないように、しかも迅速に説明してのける。

「こちらは副船長です。ただいま、船長以下五名の決死隊が、瀕死のエンジンを救うべく、必死の努力を繰り広げております」

 なにしろ大変なことが起きたのである。ピンチなのである。乗客を守る英雄的なスタッフたちなのである。であれば、そういうふうに言ってやればいいではないか。そのためには演出もするのだ。バックに中島みゆきかなにかを流しておくのだ。

「最初から説明いたします。この船の、二基備えられておりますエンジンは、冷却ポンプの不調により両舷とも停止に至りました。船内の限られた資材で修理を行うことは技術的に不可能に近い挑戦ですが、船長はこう言われました。乗客の皆様に少しでも早く安全な陸地へと運ぶためには、あえて不可能に挑戦せねばならないのであると。そのためにはあらゆる努力を払う必要があるのだと」

 決意を伝えるのである。一生懸命やっていることを、説明せねばならない。乗客の不安はもっともだが、男たちは何とかするのである。

「何があろうと乗客の皆様に、可能なかぎり快適に過ごしていただくため、われわれスタッフも全力を尽くします。まず、船内の食料をみなさまにお配りいたします。時間通りの到着はもはや不可能かと存じますが、こうなっては乗りかかった船です」

 ちょっとうまいことを言ったりもするのである。でもこれは諸刃の剣であって、怒る人は怒ると思う。

「運賃の払い戻し、代替輸送機関の手配につきましては親会社の判断を待つしかありませんが、可能なかぎりの補償がされることとわたくしは信じております。このような不祥事を乗り越えてみなさまに信頼いただくには、それしかないと社員一同確信しております。詳しい決定がされしだい、皆様にお知らせいたしますので、今はどうぞお許しいただきますよう、伏してお願い申し上げます」

 調子のいいことばっかりは言えないのだが、そこをなんとかごまかしたい、もとい説明したい。そのあたりを汲んで欲しいのである。

「あっ、船長が戻って参りました。氷点下の船腹から、凍りついた手袋を携えて、濡れそぼった白髪のしたから、これだけは入社当時と変わらない煌々たるまなざしを覗かせた船長が、ブリッジに只今戻って参りました」

 どんどん説得力が無くなってきた気がするが、ますます社会が複雑になってゆく二〇〇三年に、求められている職業こそ「説明師」かもしれない。関係部署の方々にはぜひご一考願いたいと思う次第である。


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