確率は変えられなくても

 超能力、特にテレキネシス/念動と呼ばれる超能力について、誰かが面白いことを言っていた。念じただけで物を動かす、念動というものが本当にあるとすると、その作用に対する反作用をどこかが引き受けなければならない。大砲の砲座が後退して弾の反動を受けるように、気合一発、敵を吹き飛ばす能力の代償は、反対に自分の体も吹っ飛ばされる、というものになる。特に、念動がなんらかの脳のありかたに由来する能力で、体のほかの部分ではなく脳が直接対象を動かしていると考えるなら、華奢な脳が全反作用を受ける必要があるかもしれない。脳というのは決して頑丈な臓器ではないので、これは心もとない。ちょっと重いものを動かしただけで、くしゃとつぶれてしまいそうな気がする。

 だから念動などというものはないのだ、と言い切ってしまうと、さすがにその論法はなんかおかしいぞ、と思うわけだが、発想としては面白いと思う。なるほど、超能力だからといって簡単に物理法則を逸脱してよいわけがない。いや、超能力だからいいんだそういうものなんだ、との主張にはその通りだとこたえるしかないのだが、そうすると念動の導入に当たって二つの意外な事実を既存の科学に組み入れなければならないことになるのである。

(1)ある種の人間の精神が遠隔作用を持つこと。
(2)この場合は運動量が保存しないということ。

 これは確かに厳しい。厳しいと思うのは「ありそうもないことが二ついっぺんには起こらない」という感覚的な理解から来る、自然なバランス感覚だと思う。実際には念動などというものはおそらくないので、実際にこういう主張をしなければならない時が来るとは思えないが、たとえば物語に登場させるとしても、どうにか処理をして、嘘は一つにとどめるべきだ。作中で念動を肯定したいのであれば、運動量やエネルギーは保存させるのである。たとえば、地面が反作用を受けてへこんだり、念動を使用すると周囲に異常な温度低下が見られる、などと描写するわけだ。面倒なようだが、少なくとも私は、そういう話を読むととてもほっとする。作者が、読者に対して誠実であるように感じるからである。

 さて本題の、確率の話だ。賭けをする場合に、一見負けなさそうな賭け方、というものがある。ルーレットの赤黒のどちらかに賭けるような、勝率(ほぼ)五割、勝てば倍になって返ってくるタイプのばくちで、こういうふうな賭け方をする。

1.赤に百円賭ける。
2.勝てばよし、負ければ二百円賭ける。
3.勝てばよし、負ければ四百円賭ける。
4.勝てばよし、負ければ八百円賭ける。
(5以下同様に続く)

 負ければ賭け金を倍にして続けるのである。負けつづけということはなくて、いつかは勝つわけで、そうするとこれまでの負け分全部に加えて、百円儲かる。たとえば三連敗のあと一勝、上のステップ4で勝った場合、それまでの賭け金は千五百円で、戻ってくるお金は千六百円(八百円の倍)。確かに百円儲かっている。つまり、こういう賭け方をすると、絶対に負けない。

 ここを読んでいる多くの人はそうだと思うが、ここで、まっとうなバランス感覚を持っていると、こんなうまい話があるはずがない、と感じると思う。ばくちの勝率が五割なら本当に勝率は五割なのであって、インチキでもない限りそれを上下させることはできないはずだ、なんらかの保存則が働いているはずだと。確かにこの方式を使うと、一連の勝負に高い確率で勝つことができる。一連の賭けを一回とみなすならば、この賭けの勝率は(一回きりの賭けでそうであったように)五割ではない。しかし「そんなはずはない」のである。

 知らない方のために書かずもがなの説明をすると、要するにこの場合は、勝率ではなくて、期待値が保存しているのである。期待値は勝率と賞金を掛けて賭け金を差し引いた数字であり、この賭け方では「五割の確率で百円儲ける、五割の確率で百円失う」という賭けが「高い確率で百円儲かるが、わずかな確率で全財産を失う」という賭けに変換されることになる。どれくらい「わずかな確率」かというのは全財産(またはカジノの最大掛け金)がどれくらいかによるのだが、たとえば一万円持ってゲームを始めたとすると、六連敗すると次の賭けができなくなるので、六四分の一の確率で六三〇〇円負け、六四分の六三の確率で百円勝つことになる。天秤の両側は、金額と確率の掛け算(これが期待値)で釣り合っているわけである。

 つまり、賭けにおいては、勝率は必ずしも保存しない。賭け金を操作することで、儲けがしょぼくなる代わりにうんと勝率を高くすることもできるし、逆にめったに勝てないけれども、たまに勝った時の儲けを大きくすることもできるのだ(勝った時に掛け金を倍にしてゆくなど)。このへんの事情は「てこ」に似ている。物を持ち上げるときに「てこ」を使うと、小さな力で物を動かすことができるのだが、その代わり取っ手を長い距離動かさねばならない。保存しているのは、力ではなく、仕事(力×移動距離)なのである。

 さて、以上のとおり、同じギャンブルをしているかぎり、
・いつも少し勝つが、ときどきどかんと負ける。
・いつも少し負けているが、ときどきどかんと勝つ。
というような差はできるものの、期待値に直してしまえば結局みな同じになるわけなのだが、実人生の中でこの二つは決して同じではない。谷岡一郎氏が著書(※)の中で、この二つの賭け方を比較して、それぞれ「破滅型ギャンブラー」「ゆとり型ギャンブラー」と名づけていて、なるほど、と思った。詳しくは下の参考文献に当たって欲しいが、端的に紹介すると、普通の人の遊興費は「いつも少し負け」は吸収できるが「どかんと負け」は吸収できない。破滅型の賭け方をしていると、いつか生活費まで使い果たして破滅するかもしれないのである。くだらない、百円ずつのあぶく銭と引き換えに。

「期待値保存の法則」を少しも崩すことなく、それでも賭け方によって「破滅」と「ゆとり」のような対照的な差が生じるのは、おもしろいことである。いくらあがいてみても保存則の手のひらの上、どうにも人生を改善できないというわけでは「ない」のだ。考えてみればそもそも「てこ」がそういうシロモノであり、仕事は保存するから少しも得をしていないなずなのに、明らかに楽に大岩を移動する手段である。保存則の厳密さに比べて、人間のほうはあいまいに、どういう状態を「快」とするかに得手不得手があるので、こういうことになるのではないかと、そう思う。

 超能力についても、運動量やエネルギーが一見保存してないのだけども、大きな枠内ですべてをトータルして考えるとちゃんと保存しているとか、そういうことがわかれば、面白いと思う。いや、だから現実問題として、念動は存在しないとは思うのだが、少なくとも超能力を描いたSFでは、そういう目を見開かされるような立派な、厳密な理論の伽藍の中で、小さなずるを許す体系をかたちづくれたならば、とてもすてきだと思うのである。いやだから、サイコロは動かせなくてもいいから、な。


※「ツキの法則」谷岡一郎、PHP新書、一九九七年。
トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む