育児は戦いである、と書くと、普通は「子供=怪物」的な、子供を敵とみなして育児の手間を戦争とみなす、ある種のものの見方を連想するのではないかと思うが、ここで書きたいことは、少し違う。
子供は、その成長過程で外部からさまざまな刺激を受け、あるものは自らの内に取り入れ、あるものはさして影響を受けないまま大人になってゆく。その中には「親が子供に得て欲しいと思う知識や知恵」と同時に「親が子供に得て欲しいと思わない知識や知恵」が、はっきりと二分されているわけではないにせよ、確かに存在する。親の主観で前者を有益、後者を有害と仮に呼ぶとすれば、子供にさまざま入ってくる有害な知識を押しのけて、いかに自分の信じるところに従った有益な知識を与えるか、これは正しく競争であり、戦いにほかならない。
おぼろげな知識を確かめることもないまま、間違っていたら間違っていたで構わないやどうせこんなページだしの精神で書くのだが、私が上のような意見を最初に見たのは小林よしのり氏の言葉としてではなかったかと思う。親の目で見た有害な図書をいかに排斥するか、という問題において、親としてはむしろ自分が素晴らしいと思う作品をより多く与える方向で、子供がどちらに多く影響を受けるかという戦いを受けて立ち、それに堂々と勝利すべきである、という論旨だった(気がする)。
これは素直に正しい意見だと思う。ただ、現実に子供を育てる親となって、上のような戦いに常にさらされており、勝利する自信もある程度はある、そんな私として、それでもなお、こういうことを思う。たとえ勝つと決まっている戦いでも、敵は少ないほうがよい。あるいは、勝ちさえすればよいのではなく、損害をなるべく少なくしたい。そういう望みを持ってもいいのではないか、と。人間、始終戦ってばかりいるわけにはいかないものだ。
先だって「日本PTA全国協議会」という組織が、アンケートの結果として有害なテレビ番組の発表を行っていた。アニメ「クレヨンしんちゃん」が「子供に見せたくない番組」として堂々一位に選ばれており、私など、なるほど順当なものが選ばれるなあ、と思ったものだが、一方で非常に誤解されやすい統計ではあるので、少しこのことについて書いておきたい。一言で言うなら「人気投票は順当だが不人気投票は順当でない」という話である
いま、人気投票を行い、たとえば日本中で「もっとも結婚したい男性」というものを選んだとする。これに選ばれるためには二つの条件が必要だろう。
(1)多くの人にとってその男性が選択肢に入っていること(知られていること)。
(2)選択肢に入れてくれた人の大部分で、一番に選ばれること。
もちろん百万人が選んだ男性と百万人が結婚できるわけではないのだが、テレビの視聴率、写真集やCDの売上げに直結するため、それなりに意味がある統計である、と言える。
しかし、この反対「もっとも結婚したくない男性」はちょっと違う。得票数で一位に選ばれるためには、
(1)多くの人にとってその男性が選択肢に入っていること(知られていること)。
(2)選択肢に入れてくれた人の大部分で、最下位に選ばれること。
という条件が必要である。「結婚したくない男性」とほとんど同じなのだが、こちらのほうは(1)と(2)が逆方向に向いた矢印であることに注意しなければならない。あなたがおそらく世界で一番結婚したくないと思っているはずの近所のヘンテコなおっさんは、日本一にはたぶん選ばれない。むしろ全国的にはそこそこ人気がある、ただいかにも格好悪い感じの芸能人が選ばれるはずである。あるときには、一人の人間が結婚したい男性、したくない男性の両方のランキングに顔を出す場合さえ、あるかもしれない。
つまり、得票数で単純に一位になるためには、まず有名である必要があって、これがなかなか普通のことではないのである。人気がない人は大抵の場合、そもそも有名にはなれないのだ。
「子供に見せたくない番組」にも同じことが言える。グラフで表すと分かりやすいかもしれない。番組Aと番組Bがあったとして、それぞれの視聴者数は百万人と二〇万人である。
番組A:□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
番組B:□□□□
四角一つが五万人を表す。ここで番組Aは良質で、八〇パーセントの人が有益、残りの二〇パーセントが有害と考えている。一方番組Bは比較的嫌う人が多く、見た人の二人に一人は有害だと思っているとする。
番組A:■■■■□□□□□□□□□□□□□□□□
番組B:■■□□
黒い四角が「有害」と考えている人の数になるが、そうすると、驚くべし、番組Aが二〇万人、番組Bが一〇万人と、「有害」と感じる人の数でいえば番組Aが上位に来てしまうのである。これは正しく各番組の評価を反映したことにならない(「より多くの人が有害だと思っている」のは確かだが、それでは「有害でない」と思っている八〇万人をまったく無視している)。各番組について、有害と思う人とそうでない人をそれぞれ集計し、比率で算出すればこんなことにはならなくてすむのだが、単に「有害な番組は何ですか」という質問をした場合、大人気番組が、人気があるということそのものをもって有害番組のチャンピオンに選ばれてしまう傾向にあるのである。
もちろんこれは一例であり、あるいは、
番組a:■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
番組B:■■□□
だった可能性もある。この場合はなるほど名実ともに番組aが有害番組チャンピオンなのだが、見出しから普通考えるほどこの関係は確かなものではないことには注意しなければならない。
おそらく日本PTA全国協議会もこのことはわかっていて、同時に「どうしてその番組が有害だと思うのか」「どういう番組を見せたいと思うのか」のアンケートを取り、テレビ局にどういう番組を作って欲しいのか、という明快な意思表示をしている。これは少なくとも、一定の価値があるアンケートではないかと思う。しかし、悲しいかな、よりセンセーショナルなのは「『クレヨンしんちゃん』が一位」という見出しであり、誤解されやすい結果が一人歩きをしているように見えるのだ。何が得票数一位なのかにはさしたる意味がない、ということを、このニュースを報じた新聞記者自身、あまりわかっていない気がする。非常に悲しく思う。
さて、上でこの結果について「さもありなん」という感想を書いたのだが、その理由は、私が「子供に見せたくない番組の一位」を選べ、というアンケートに答えた場合、虚心に考えてやはり「クレヨンしんちゃん」を選ぶのではないかな、と思うからである。まだ私の子供はこの番組を見る歳ではなく、私自身も詳しく見たことがないのだが、それでもなお、この番組には有益な側面が多数あり、特に映画版は大人が見ても感動する素晴らしいものである、という評判は高く聞こえている。
しかしその上で、主人公「しんのすけ」が大人にとって都合の悪い、非常に扱いづらい子供を具現化したキャラクターであり、その悪い点ばかり真似をされて困っている、という話も聞く。いやさ、勝てない敵ではないだろう。敵も有害一枚岩ではないらしい。しかしそうと知ってなお、できれば戦いを避けたい、楽をしたい、と思ってしまうのである。番組がなくなるべきだ、終わってくれとは決して思わないのだが、犠牲はなるべく払いたくないではないか。だから、このことが番組制作上に圧力を加えるとすると心外だが、選ぶなら雑兵よりも好敵手を選びたい、と思う。
ところで、小林よしのり氏がどうして「戦いである」というふうに言ったかということについて、やはりこれについてもおぼろげな知識を確かめることもないまま、いいじゃないかどうせこんな精神で書くとすると、彼の代表作である「おぼっちゃまくん」が、ちょうど今の「クレヨンしんちゃん」に相当する、子供には好かれているけれども親には徹底的に嫌われる類の作品であり、この関連で語られた言葉だったように思う(違ったらごめんなさい)。
彼が上のような理屈、嫌われもの一位は時に勲章ですらある理由を知っていたら同じことを言ったろうか。やはり言ったような気もする。なんとなく「おぼっちゃまくん」こそ上の「番組a」に相当する作品であるような感じがするのであり、だとすれば正鵠を射た言葉だと思うのだ。さよう、戦いである。搦め手から攻めるのも、また戦いではないか。