バスの来ない宇宙

 コンピュータのパスワードや、キャッシュカードの暗証番号に「password」や「1234」のような単純な文字列を選ぶ人が、世の中にはいる。こういう選択をする理由を考えるに、面倒である、忘れにくいなどのほか「単純すぎてかえってみんなが使わないだろう」「ハッカーや盗人も試してはみないだろう」という意識があるのかもしれない。しかしこれは、セキュリティに詳しい方はご存知の通り、間違いだ。同じ思考をたどる人は思ったよりもたくさんいて、サーバに不正侵入を試みるときなど「password」というパスワードは、試してみるに値する「よくあるパスワード」になっているらしい。

 その意味では、あなたが新しい音楽、絵画、小説や漫画を作り出したとき、あるいは何らかの目的でホームページを立ち上げたとき、そのタイトルとして「無題」を選択するのは、あまりいいアイデアではない。無題では検索しようがないし、表現者として受け手への情報チャンネルを自ら閉ざすのはもったいない、ということもある。しかし、もっと大きくは、上で挙げた「パスワードというパスワード」と同じく、独創性において難があると思うのである。

 つまり、タイトルの付け方というと、これはもう無数にある。すべての言語の全ての単語の組み合わせ方なのだから、厚い辞書の収録語数の二乗、三乗という数であるはずだ。これに対して「無題」は、その中のたった一つしかない状態である。この圧倒的な数の差が、無題というタイトルに、陳腐とは言わないまでも、鈍い輝きしか与えないと思うのである。似たような話で、インタビューへの答えとして「モットーは『モットーを持たないことです』」という人もいるが、パラドキシカルな響きがちょっと面白い(※1)ものの、やっぱりやめたほうがいい感じがする。

 さて、以上は前置きである。アインシュタインの言葉として、こういうものが伝えられている。

「宇宙について最も理解できないのは、宇宙が理解できることだ」

 以上で議論してきたことをかんがみて、こう思う。そんな思い付きを口にして、ええのかと。いや、確かに基本的にアインシュタインはそういう人だ。軽率な思い付きをよく口にする人、とは言えないと思うが、なにしろ有名人なので思いつきでたまたま口に出したことまでいちいち後世まで残ってしまう、そういう立場だった人である(※2)。しかしながら、この言葉に関して言えば、単純な「逆説的な快感」のほかに、やはり深い意味もあるのだろうと思う。すなわち、宇宙はべつにそうである必要はなかったのに、どうしてだか数学で理解できる。たとえば1足す1が2と3の間を不規則に変動する世界でも構わなかったはずなのだ。これは不思議だと思わねばならない。

 その日、私はバス停でバスを待っていた。じりじりと照りつける太陽は肌に頭皮に目の粘膜にひたすら熱く、手に持った荷物は重かった。大学が早い夏休みに入った次の日で、帰省する道すがら、どういうわけかワープロ専用機を一台、手提げ鞄に入れて持っていたので、荷物は総重量は十キロをやや越えていたと思う。先にちぎれるのは私の指か鞄の握りかどっちだ、というような重さだった。幸い、帰郷といえども、歩く距離に直せば大したことはない。バス停までの歩きは辛かったが、あとの乗り換えはさほどではない。

 しかしバスは来ない。風雨に傷んだ時刻表をよく見てみれば、おおむね二〇分ほどの間隔でバスを運行しているようである。とすれば、交通事情のせいで遅れたとしても、平均しておおよそ二〇分に一本の割合で来なければならない。腕時計を見た。私がバス停に着いたのは確か午後一時二五分くらいで、今は三五分をちょっと過ぎている。もう来てもいいようなものだ。

 いや、そうではない、ということを当時の私は知っていた。ある理屈があって、遅れたバスの到着頻度は決して一様にはならないのだ。たとえば、バスが遅れに遅れたため、一時間に三本の割合で来るのは確かだけれども、何分に来るかはまったくわからないとする。三台続けて来るかもしれないし、二〇分ずつ等間隔で来るかもしれない。この場合、平均待ち時間はどうなるか。

 まず、三台とも一緒に来て、あと一時間はバスが来ない場合。このときの平均待ち時間は三〇分になる。待ち時間は、最も短くてバスが滑り込んだそのときに自分も来た場合で、〇分。最悪の場合は六〇分近く待たねばならない。一方、たまたまバスが等間隔に二〇分ずつ空けてきた場合は。直感どおり、待ち時間の平均は十分になる。待ち時間は最悪でも二〇分だ。

 ここでよく考えてみると、待ち時間平均はどうしても、一〇分より短くなりようがない。たとえば、三台のバスの間隔が一〇分、二〇分、三〇分であったとする(たとえば、一時一〇分と、三〇分と、二時ちょうどに来る場合)。自分が最初の一〇分の間にバス停に来れば平均五分でバスが来る。次の二〇分の間なら平均一〇分、最後の三〇分の間であれば平均一五分の待ち時間になるが、この三つをさらに平均して一〇分待てば来る、と考えてはいけない。でたらめな時間にバス停に行った場合「乗客が最初の一〇分の間にバス停に着く」という前提それ自体が、一時間のうち一〇分だけ、六分の一しか可能性のない、まれな出来事なのである。残りの二〇分あるいは三〇分のうちどこかに到着する可能性が高いのだ。だから全体の平均待ち時間を出すときには、各々に六分の一、三分の一、二分の一を掛けて加えなければならない(5×10/60+10×20/60+15×30/60)。答えは約一二分だ。

 これ以上は暗算ではなかなか難しいが、正確に計算をしなくても、感じがつかめるだろうと思う(※3)。「バスがたまたま長く間来ないとき」は、なにしろ時間が長いわけなので、その時間に自分がバス停に来てしまう確率も高くなる。バスの待ち時間が平均一〇分なのはバスが全く遅れていない、理想的な場合だけで、少しでも到着時間に偏りができると、待ち時間の期待値は悪くなる一方なのだ。そして、等間隔にバスが来るのは「一通り」しかないが、バスのダイヤが乱れる乱れ方は非常にたくさんあるのである。一対多。そういうことだ。

 それにしても、こういう「日常の不運」が数学で説明できるというのは、まことに素晴らしいことだ。私は、そう考えて、肩で大きく息をすると、もう一回時計を見た。待ち時間は既に三〇分を過ぎていて、道路の照り返しは暑くて、依然としてバスはさっぱり来なかった。こういう場合、どうしたらいいのだろう。あきらめて歩くのかそれでも待つのか、どちらが有利なのだろうか。しかし手は痛くて汗は目に入って、どんなに考えても答えは出なかった。宇宙はやっぱり、理解しがたい存在として私の前に立ちふさがっているように思えた。


※1 そういえば、小松左京氏の小説に「題未定」という作品がある。ややこしいが、これはつまり「『題未定』という題名」であり、タイトルがまだ決まっていない、という状況下で進行するメタフィクションである。高校生くらいのときに読んで、面白かった記憶がある。
※2 あるときたまたま舌を出して写真をとってもらったら、それがどういうふうに使われ続けているか、と考えるだに、アインシュタインも楽ではないと思う。
※3 興味のあるかたのために書いておくと、バス三台がまったくランダムな時間に来る場合の、バス停で待つ客の平均の待ち時間は一五分になる(…と思います。自分で計算したのでイマイチ安心できないですが)。
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