無限の悪夢

 いまここで、庭に深い井戸が掘ってあるところを想像しよう。あなたの今の家に井戸があるような庭がなければ、父母や祖父母の家でもいいし、親戚や友人の家、なんなら近所の空き地でも小学校の裏庭でもいい。とにかく、庭の隅に、ぽつんと井戸がある。普段は上に板かなにかが張ってあって、存在自体を忘れられかけているような井戸だ。

 使われなくなって久しいこの井戸は、とてつもなく深くて暗いのだが、内側に梯子が固定してあって、下りてゆくことはできる。あるときあなたは、井戸の中になにかかけがえのないものを落としてしまい、しかたなく、この井戸に入ってゆくことにする。

 梯子を下りはじめたあなたは、やがて気が付く。この梯子段は、降りるに従って、少しずつ間隔が広くなっているようだ。はじめは普通に下ってゆけたのに、やがて、梯子を下りるときに普通するように、上の段に片方の足をかけたまま下の段にもう片方の足を届かせる、ということが難しくなっている。股関節のストレッチのような苦しい降下運動を続けるうちに、ついに下の段には足を届かせられなくなる。

 いや、それでも降りてゆくことはできる。上の段をしっかり握ったまま、鉄棒の要領で両足を少し垂らせば、下の段に足は届くのだ。そうして足がしっかり下の段を捉えたら、上の段から手を離し、その場でしゃがんで次の段に挑めばよい。

 しかし、こうしてえっちらおっちら段を降りてゆくうちにも、ますます段の間隔は開いてくる。下の段を探す足が、少しずつ、伸ばした先でやっと踏み段を捉えるようになり、やがて背伸びをするようにうんと伸ばさなければ見つからなくなる。そうして何段か降りたあと、上の段にかろうじて指をかけた状態で、足先にかすかに下の段を捉えたような気がして、とんと飛び降りたときに、はじめて気が付く。

 引き返せない。

 上の段には、もう、どうやっても手が届かないのだ。いや、下の段に下りることはできる。梯子の段と段の間を、少し落ちることを覚悟すれば、ここから先も下りられないことはない。しかし、上の段の横棒には、もう手が届かないので、登れない。段の上ですこし跳んで、なんとかならないかとやってみたが、指先は触れるものの、しっかりつかむことはどうやら不可能だ。無自覚に、段を降り過ぎてしまったらしい。

 あなたは、梯子につかまったまま上体をそらして、上を見上げて、それから、さらなる絶望感に襲われる。上のほうから、誰かが降りてくるのが見えるのだ。一人ではない。一番上、地上に近いところでは普通に、その下のほう、梯子段の間隔が開いてくるところでは危なっかしく、梯子の段にぶら下がり、ぶら下がりながら、あなたのいるほうへと、何人もの人が梯子をひたすらに下りてくる。

 他にしようもなく、あなたはさらに下へと、足元の段をつかんで、ぶら下がり、降りる。いよいよ井戸は深く、どこからか吹いてくる風は冷たく、あなたはひたすらに降り続ける。下は暗くて何も見えない。


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