恋はこわれもの

 新しいノートパソコンを買ったときというのは、新しい恋人ができたときにちょっと似ているとぼくは思う。二人の関係が長続きするように、少なくともあっという間に破局が訪れたりはしないように、相手の扱いは慎重で丁寧で、とても親切でなければならない。しかしその一方で、こんなおもてなしをずっと続けられない気もしている。長い人生、どうしたって傷一つつけずにはゆけないし、少々ぞんざいに扱っても壊れない、ってことがわかったらとにかく気が楽だ。どこまでの扱いが許してもらえるのか、試すのは怖くてできないので、ちょっとしたジレンマだと思う。

 いや、ぼくは、いまから恋愛論を始めようというんじゃない。始めたいのはノートパソコンの扱いの話だ。

 恋愛の場合は、たぶん、付き合った時間に比して関係は強固に、究極的にはちょっとやそっとで二人の仲が壊れたりしないようになってゆくものだと思う。危機を乗り越えたらかえって強くなる。すりキズきりキズが勝手に治ってゆくように、生き物はそういうところ、よくできている。でも、ノートパソコンは違う。器物の悲しさ、たまってきた疲労は回復はしないのだ。やがてはあちこちにガタが出始め、最後には使い物にならなくなる。

 長く使ったぼくのノートパソコンがついに壊れたとき、うつろな頭でぼくはだいたい上のようなことを考えながら、狼狽して缶ビールを二本あけた。机の上に広げたノートパソコンにデジカメをつないでおいて、データを転送している間ちょっとトイレにいってこようと椅子から立ち上がって歩き出したら、ケーブルが足に引っかかって、一式もろともがしゃんと床に落ちたのだ。トイレは余裕を持って。急いでゆくものではありません。

 教訓はいい。幸いデジタルカメラのほうは無事だったし、趣味にしか使ってないノートパソコンの中には、失って困るようなデータも、まあ、ちょっとしかない。買ってから六年目のノートパソコンはそろそろ買い替え時だったし、貯金もある。じゃ、なんでこんなに悲しいんだろう。

 三本目のビールを飲みながらつくづくと考えた。そうだ、ぼくがいままでやってきたことが悲しいんだ。

 ぼくはこのノートパソコンを、できるだけ長く使うつもりではいたのだ。だから、下にも置かぬとはいかないけども、結構なおもてなしをしてきた。キーボードやトラックパッドが壊れたら修理するのは大変なので、外付けのキーボードとマウスを買って、そっちをずっと使っていた。液晶画面には薄いフィルムを張って、キズがついたりしないようにした。バッテリーを買い足して、減らないように冷蔵庫に入れたりした。CD-ROMドライブは外して神棚に上げてある。使わないときは液晶のバックライトが減らないように、スイッチを切ることにしていた。運搬には特に気を使って、専用の鞄を買い、それでも足りずにクッションでぐるぐる巻きにしてきた。

 でも、引っ掛けて、がしゃん、終わり、なのだ。

 がんばってきたいろんな気配りのうち、鞄やクッションは、まあ、しかたないかもしれない。これがなかったら、もっと早くに、どこかでぶつけて壊してしまったかもしれないから。でも、バッテリーはむだだった。キーボードとトラックパッドはもっと使っとくんだった。空き時間には「SETI@Home」でも走らせて社会に貢献しておくんだった。がしゃんの時点で、どれも壊れてなかったんだから。

 不幸なときは不幸なたとえが思いつくものだが、もしも、恋人を事故かなにかで亡くしたら、もっと乱暴に扱っておくんだったなんて絶対に思わないで、もっと大事にしておくんだった、と思うに違いない。ノートパソコンに限ってこんなことを考えるのは、やっぱり恋人とノートパソコンは違うんだ、ということかもしれない。

 ぼくは冷蔵庫に入っていた最後の一本、四本目のビールをつくづくと眺めながら、考えた。いつかぼくが死ぬときに、この一本のビールを我慢しておけばよかった、と思うのだろうか。それとも、どうせ事故で死ぬんだったら肝臓なんて使いつぶしておけばよかった、と思うんだろうか。パソコンを壊した夜はまだまだ明けず、だからパソコンショップも銀行もまだ開いていなくて、ネットから切り離されて狭いアパートに一人、未来のことは何もわからないような気がしていた。


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