「サンヨーオールスターゲーム」というのはプロ野球のオールスターのことだが、テレビ中継を見ていると三洋電機のコマーシャルが多い。たぶんほかでもない「サンヨーオールスターゲーム」だからなのだと思うが、見ていた私はすっかり「異邦人」が耳に残ってしまった。このときの三洋電機のイメージ広告のようなコマーシャルフィルムが、この曲を採用していたのである。
久しぶりに聞いたこの曲は、どうも私にとって座りが悪いというか、居心地の悪い感じがする歌である。一九七九年頃のヒット曲というから、小学校三年生の私がテレビで切れ切れに聞きかじって覚えかじった結果、この歌のさびのところがどうもあやふやで、あやふやのまま、ずっと覚えているからである。これだ。
「ちょっと振り向いてみただけの異邦人」
上は今調べて書いたので間違っていないと思うが、これが一日ふつかすると「みただけの」のところが何だったかわからなくなる。「振り向いてみた。だけど」のようにも思うし「振り向いてみたけれど」だったかもしれない、などとも思ってしまう。
そもそもこの歌は、なんだ知っている人じゃなくて異邦人だったわい、という歌ではべつにない。あなたにとって私はちょっと振り向いてみただけの異邦人なのね、という歌なのであって、意味から考えると間違いようがない。私が異邦人なのである。ただ、やや曲と詞の噛み合せが良くなくて、日本語として不自然なところで切る歌になっているので、こんなにも覚えられないのかもしれない。
突如として別の話をする。今月(2003年9月号)の「日経サイエンス」誌に「幸福の手紙に潜む進化のルール」と題した記事が載っている(Charles H. Bennett他)。幸福の手紙(あるいは不幸の手紙)は、多くの人々の手を経て伝えられてゆくものである。来た手紙と同じ文面のものを何人かに送るにあたって、基本的には正確な写しが作られるのだが、時にはミスにより中身が少し変わることもある。受け取ったほうでは、何が正しくて何が間違っているかなどわからないから、紛れ込んだ誤りはそのまま次世代に伝えられてゆく。
そこで、多数の幸福の手紙を持ってきて子細に比較すると、明らかに同一のルーツを持ちながら、中身が少しずつ違っていることがわかる。どこが変わってどこが保存されているかを検討することで、どの手紙がどの手紙の元になり、どう分岐してそれぞれの手紙になっていったかという、系統図を描くことができる。それは生物の進化において遺伝子の変化に着目し、系統性を見いだす作業と全く同一であり、同じアルゴリズムが有効に働くのである、という、そういう記事だった。
実際の生物においては、遺伝子のコピーは非常に正確に行われる。正解の数に比べて「間違い方」というものがものすごくたくさんあるように、遺伝子の複写にエラーが紛れ込んで、変異が起きた場合、そのほとんどで子孫が生き延びられない(というより、生き物として生まれてこられない)のである。即ち、たまさかに突然変異が有利に(ないし少なくとも不利にならないように)働いたわずかな場合を除き、間違ったコピーは子孫を残さない。伝わってゆかないのである。だから遺伝子は、一生懸命正確に、コピーされる。
これに対して、幸福の手紙のほうは、要するに自分が「ちゃんとコピーを送りました」と納得できればそれでいいので、ここまでの真剣さはない気がする。ただ、重要なところにタイプミスがあって、たとえば「ち入に贈らないと不辛になりほすん」等々と書いてあるような手紙は「コピーして送らないと不幸になってしまうぞ」という切迫感になんだか欠けるものがあるので、やはり次世代には伝わりにくい傾向があるかもしれない。そういえば「棒の手紙」という話もあった(と、これは突然変異しつつも伝わった例)。
記事でも言及されているが、そういうわけで遺伝子においても幸福の手紙においても、変異は多くの場合、変化しても大勢に影響ない部分で起きる。遺伝子においては、DNAのうち「ジャンクDNA」等と呼ばれる、実際に体を作るためには使われていない部分、幸福の手紙においては個人名や儲けたお金の金額、地名などである。これらは、コピーミスでちょっとくらい変化しても「伝わりやすさ」という性能に及ぼす影響が少ないので、変異をそのままに伝えられてゆくことになりやすい(そうして、系統樹を読み取る手がかりになる)。
同じ遺伝子(あるいは、幸福の手紙の場合は「ミーム」)でも、間違ったらシャレにならない部分と、そうでもない部分があるのは面白い。こういう話を持ち出したのは、要するに、私にとって「異邦人」のさびのところが、この「そうでもない部分」ではないかと思ったのである。
やはりミームの一例になるのだと思うが、人ひとりの中に存在するいろいろな知識、情報について、重要なものとどうでもいいものが、確かにある。このうち「何が重要か」については明らかだ。それで口を糊するための仕事上の知識や交通ルールなどの安全に関する知識はもちろん、詐欺の手口や各種金融システムに関する情報など、知らないと人生がどうにかなってしまう知識はたくさんある。しかし「どうでもいい情報」が何かというと、これほどはっきりとはしていない。
「雰囲気は『ふんいき』である。『ふいんき』ではない」
「完璧の璧は壁(かべ)ではない。『璧』は宝石に似た意味を持つ、別の字である」
こんなのは知らなくても確かにどうということはない。しかし人生のどこかの場面において「知らないで恥をかく」ということがありうる。そして恥をかいた場合、恥をかくというのは恥ずかしいので(って、何を書いているのか私は)、もはや間違った情報はその人の中で生き延びられない。どうでもいい情報ではあるのだが、ジャンクDNAのようにどうでもいいがゆえに生き延びられる性質のものではない。
「巻貝の螺旋(らせん)は『対数螺旋』と呼ばれる種類の螺旋である。対数螺旋の特徴は自己相似形であることで、これは貝が既に持っている殻に付け加えつけることによって成長する事実に由来している」
「普通、カップラーメンには『三分待つ』というふうに書いてあるが、ペヤングソース焼そばには『三分位たったら』と書いてある。アバウトだ」
確かにまったく重要ではない。知らなくても別に恥にもならない。しかし、これらの情報は「使ってみることがある」という点でまだしも日の目を見ることがあり、従って「どうでもよい」ということにはならないのである。
つまり、重要な情報の対極、間違って覚えていても気が付かない情報とは、発表したり、使用する機会が全くなく、書き出してもさほど面白くもない(書き出そうと思わない)、隠微な知識である必要があるのである。そう思うと、歌の誤解というのはなかなかふさわしいカテゴリではないかと思うのだ。
最近、もうひとつそういうのがあった。
「月の沙漠をはるばると」
これだ。私は、ごく最近までこれを、月面上の砂漠をラクダに乗った二人が歩く、という詩だと思っていたのだ。
よく考えればそんなSFチックな歌はない。この歌を私が初めて聞いたのが、ピンクレディがUFOに関する歌を歌っていたりしていたあの頃なので、余計にそう思ったのではないかと思うが、こういう勘違いは勘違いしていたところで特にその後の人生にマイナスになるかというとそんなことはない。自然淘汰を受けないのでいつまでも生き残っているのである。いや、次世代にも伝わらないのだけれども。
私はずっと思っていた。一面に砂と岩が続く荒涼たる月面。あと一週間ほどしないと登ってこない太陽のかわりに、空には瞬かない星空が豪奢に輝き、空を支配している(もちろん太陽が昇ったとて空から星が消えるわけではない)。月平線のやや上には半分かけた地球がかかり、その青い半球が閉じかけた巨大な目のように、この砂漠を見つめている。
そこにラクダが二頭、通りかかる。これは遠未来の話であり、月もテラフォーミングが済み人間が暮らせるようになっているのだが、月面の大部分は依然としてこうした砂漠なのである。ラクダもまた、遺伝子操作を受けた特殊なものだ。二頭のラクダ(に似た何か)に乗っているのは若い男女。それも姫と王子である。かれらはこの月面に復古した王国の王族に連なる者で、月面で生まれ、兄王子たちになにかあった場合に月面を治めるべく大切に育てられた者たちである。
今、政変があり、王位継承権を持つ二人は、わずかな王家のしるしとともに、王都を離れ、お互いのほかは忠実なラクダのみを友に、どこまでも続く砂漠へと逃亡をはじめた。ラクダはゆっくりと、しかし力強く二人を乗せて砂漠を渡ってゆく。はるかに見える地球は、二人にとって未知の世界、そこに世界があると知ることもないほど遠い世界であるが、あてのない旅は、とりあえず月平の青いほしを目指して、続いてゆく。
もちろん違うのだ。既に私は、この冒頭が、
「月に照らされた沙漠」
「月下の沙漠」
という意味であることを知ってしまっている。テレビでふとそういう絵を見て、すべてわかってしまったのだ。千葉のどこかには「月の砂漠の作詞の元になった海岸」などというものもあるのだ。砂漠は地球上のもので、したがって王子も姫もらくだもなにもかも、地球上のものなのだ。月の王国もテラフォーミングも追放された王族もなにもないのだ。だいたいからして、砂漠ではなく沙漠なのだ。
私の誤解は、確かに二十年以上も気が付かずに放っておかれた、重要でもなんでもない誤解だった。しかし、事実を知った今、なにかさびしいのである。