最近買ったパソコンの中身をあちこちのぞいていたら、ゲームが付録で入っていることを発見した。「ゼビウス」に似た縦スクロールシューティング、と書けば、ある種の人々にはこのゲーム内容を端的に説明したことになってしまうのだが、知らない方にはこれではあまりにも不親切だろう。要するに、ぞぞぞんぞぞぞん、ずばばびばびび、びびぼびぼびぼぼむ、というやつです。
このぞびぞばを試しにやってみたら、これが、なんかもう、全然歯がたたなかった。ルールもゲーム性もスピードも昔からよくあるものとほとんど変わりないのだが、私のほうのスキルがとにかく退潮いちじるしい。地上目標を狙っていたら前から敵が来た、反撃しながら避退、と思っても指はそのようには動かない。なんか弾が出ないと思ったら連射していたのは「武器の切り替えボタン」とかで、あえなく敵の群れのなかで揉み潰される展開になるのである。そもそも「飛んできた敵弾や敵の戦闘機を避ける」というような基本技術さえ、使わないと錆び付いてゆくものらしい。しばらくやってないと、こうなってしまうのだ。
さてもゲームは遠くなったものだが、この老いたる戦士にそのような日々があったのかどうかさえ曖昧になるほど昔のこと、私が一年に無慮二十数本もコンピューターゲームのソフトを買っていた頃には「大西賞」というものがあった。いや、あった、と威張って言っていいようなものではないが、なにしろ暇だったので、買ったゲームの攻略用のデータをかたわらのワープロに打ち込んで保存し、半期ごとに、特に面白かった幾本かについて感想を書いていたのである。
書いてどうするかというと、まあ、どうもしないのである。今から思うと一人で泣かんと機嫌よう遊んでいたものだとは思うのだが、たとえ発表する機会がないとしても、文章にしておくことは、自分の考えをまとめる上でけっこう重要な意味がある。また、大学生というのはなにしろルーズな生活をしているものだから、いつどんなゲームを買ったかというようなことさえついには忘れてしまう。そういう記録の意味もあって、四、五年ほどのあいだ、同じフォーマットできちんと感想記事を書いていたわけである。べつに誰にも何も贈呈するわけではないが、要するにこの書いていた文書のファイル名が「大西賞」なのだった。
これは純粋な遊びとして、なにか否定しきれない面白さがあったような気がする。まずは、何事も本気でやれば、それが自分向けのゲームのレビューというような非生産的なことであっても、ある種青春の輝きのようなものを帯びてくるということ。それからもう一つ、ジャンルが多岐にわたるさまざまなゲームをあえてランキング化してしまうというのも、珍しくて楽しい体験ではあるのである。たとえば、シューティングゲームとシミュレーションゲームを同じランキングの軸上に乗せるというのは、これはほとんど「カレーのおいしさ」と「小説の面白さ」を比べるようなものだが、なにしろゲームなので「それにかけた時間」というもので一応何らかの絶対的な評価ができる。そこが面白い。
とはいえ、月に三〇分もゲームをしない今となっては、この「大西賞」を復活させるにはあまりにもデータが不足しているのである。だからこれは私にとっては既に青春の幻影となってしまったのだ、とずっと思っていたのだが、最近、ちょっとこれについてアイデアを思いついた。買って遊んだゲームではなくて「買って使った道具もの全て」を評価し、大西賞を与えたらどうだろうか。
毎日の生活を続けてゆくことは、必ずしも昨日と変わらない今日を生きるということではない。我々の生活は未だに少しずつ前進を続けており、人間の工夫は尽きることがない。日々新たなアイデアがどこかで考え出され、資本の助けを得て具現化されて、ホームセンターや文房具屋や百円ショップの棚で私やあなたに会うのを待っているのである。そういうものを買ってきて、家で使ってみると、画期的で生活を大幅に改善するものもあれば、裸の王様のアイデアな感じのシロモノもまた存在する。私が乏しい小遣いをはたいて買ってきた、そういった品物について「大西賞」を選考すればどうだろうか、面白いし、あのときとは違ってここにはウェブがある。他の人のためにもなるかもしれない。
企画倒れに終わりそうな気もするが、気は心、試しにやってみよう。ちょうど〇三年度上期ももうすぐ終わるところで、今年前半に買ったものの中からノミネート作というか、気に入ったものを挙げてゆけばよかろう。本当はメーカー名、買ったところ、価格なんかのデータがあるべきなのだが、さしさわりがあると困るし、ためしにやってみるのだから、そこまでは気にしないで書いてしまう。
○たて鎌
本当はなんと言うのか知らない。あるとき父と母が私の家にやってきたとき、ホームセンターに出かけて買ってきた庭の草を刈るための道具である。こんな形の道具を私は今まで見たことがないし、「草刈りに新兵器」等の宣伝文句が柄に貼付けてあったのを見たので、新しめの道具なのには間違いない。一メートル数十センチほどの長い柄に、先がぎざぎざになった幅の広い刃が垂直についている。畑を耕す「鍬」の刃を短く軽くして、先を少しだけぎざぎざにする。それが、少なくとも今ここで私が言う「たて鎌」である。
これは草刈りの道具だ。庭なんかに生えた雑草を取るときに、これで地面を引っ掻くようにすると、簡単に刈ることができる。腰を曲げたり、しゃがみ込まなくていいので、非常に楽である。根が深い一部の草にたいしては、これを振り上げて根元のあたりを耕すようにざっくり振り下ろすと、力もいらずに根元からすっぱり切れる。たいへん心地よい。
この「たて鎌」以上に楽な草刈り装置というと、エンジンを使って回転のこぎりをぶんぶん回すあの剣呑な草刈り機しか知らない。この丸ノコのかわりにビニール紐を使う安全草刈り機を、アメリカに行った時に初めて目撃して「すごいぞアメリカ」と思って帰って父親に話したら、黙って納屋に案内されたそこに同じものがあった、ということが昔あって、もしかしてこの「たて鎌」も同じ、最近のフィールドワーカーはみんな使っているのかもしれないのだが、とにかく楽ちんで感動したのでここにノミネートする次第である。
○「三枚刃のひげそり」
ひげそりというのはいつも何かしら前のバージョンに比べて進歩があるもので、いくつか存在するメーカーはどこも恐ろしいほどの密度の広告でそのことを宣伝しているものである。なんでひげそりに限ってこういうことになっているのかよくわからないが、なにか競争が資本主義で市場が広告なのだろう。前のやつに比べてめちゃめちゃすげえぜ、肌が全然荒れない上にひげは根こそぎ剃れるぜ、という過剰な宣伝に比して、実際に技術革新があることは残念ながらあまり多くない。
ところが、今年の夏休みに実家の近くで買ったこの「三枚刃ひげそり」は違った。そもそも二枚刃というのは昔からあるもので、その二が三に増えただけであり「多いほうが偉い」という原則は普通こういうところでは成り立たないものである。いかにも「この自動車はタイヤをなんと六個も装備」とか「こっちのマウスのほうがボタンの数が多い」的な増え方であり、これでよく剃れるようになるとは思わないのである。思わないのであるが、つまりそうではなかったのである。使ってみるとめちゃくちゃ綺麗に深く、肌を傷めず、短時間でひげが剃れるのだ。ほとんど質的な変化と言っていい。
こんなにも三枚刃がいいのに、そのことがあまり知られていないのは(いや私が知らなかっただけだが)、宣伝する広告がいつもと全く変わらない感じがするものだったせいだろう。いつも過剰に宣伝しているので、本当の技術革新を宣伝する言葉がもはやないのだ。それはこの三枚刃を開発した人達にとって、たいへん不幸なことだと思う。
なお、その後もこのひげそりを使っていると、だんだん切れ味が普通レベルまで落ちてきたような気がする。ひげそりというのは一般にそうで、新しいときほど切れ味がいいのだが、もしかしたら三枚刃には「半減期が短い」という短所があるのかもしれない。ともあれ使用一ヶ月。まだよくわからない。
○ペットボトル用ストロー
子供の発達段階において、哺乳瓶や母乳を「吸う」という状態から、「コップから直接飲む」への発達は、意外に早期にやってくる。もしかしたら「ストローでコップの飲み物を吸う」よりもよほど早く、コップに飲み物を入れておけば自分で飲むようになるのだが、これは「こぼさずにコップから直接飲む」とは全く違うスキルであるのがミソである。赤ん坊の段階を脱すると、親がお出かけのたびに道中の飲み物を用意してゆく必要がなくなるが、そこで活躍するのがペットボトル用ストローだ。
基本的にはペットボトルの底まで届く長さのストローであればいいのだが、ストロー赤ちゃん用品店で、数百円出すと非常に上等なものが買える。市販の500mlのペットボトルに装着できて、ストローが収納できて、ふたを閉めると飲み口が露出しないので衛生的で、しかも口からペットボトル内に飲み物が逆流しないようにできている。途中に弁がついているらしい。すごくよくできている。
惜しむらくは、逆流防止弁はあるものの「正流防止弁」がない。ふたはあるものの、鞄の中に入れておくと、いつのまにか飲み物が中に漏れている。なんだか致命的な欠陥であるような気がするのだが、逆流防止弁はなかなかいいアイデアなので、このへんをなんとか次までに改良してほしいと思うのである(その機能をつけようとした形跡はある。途中にひねる機構があるのだ、が、ひねってもなにも起きない)。
こんなところだ。ほかにも何かあったような気がするのだが、思い出すずつ、またこういうのがたまったら書き留めておいて、期末くらいにどれが大賞だか考えてみようと思う。それにしても、ここに「新しく買ったパソコン」が入ってこないというのは何か悲しいことであるようにも思える。前のパソコンがおかしくなったから買った、補充兵だからだろうか。オーエスエックスにきりきり舞いさせられっぱなしだからかもしれない。いや、単に私の楽しめるゲームが入っていないのが原因という可能性もある。選考委員会は、いや私一人なのだが、さよう黙して語らないのである。