雨のクジャク

「創造論」というのか、人間は神によって今のかたちに造られたのだ、という主張に対するある論争の話を読んだことがある。書いていたのは生物学者のスティーブン・ジェイ・グールドだったかもしれないし、他の誰かだったかもしれないのだが、とにかくその人があるとき、学生と激論を交わした。ずいぶんしつこくて、骨が折れる論争が物別れに終わって、ふと見ると相手が握手を求めてくる。実は、彼女は創造論なんてこれっぽっちも信じていないのだ。ただ、論争の技術の習得のため、あえて創造論側の論客として戦いを挑んだのだった。

 知らずにこんな「練習」に巻き込まれては、誰でも憮然とするところかもしれない。筆者も疑問を呈している。自分自身がまったく信じることができない立場を弁護するというようなことがあってもいいのだろうか、というような批判だった。私の考えを述べるならば、弁護士としては確かに自分自身の主義主張と異なる立場を弁護せねばならないときもあるだろうと思うし、一般的にこの手の論争は少なくともよい練習にはなるに違いないとは思う。ただ、筆者の言うように、科学的命題についてまでこの原則を広げてはよくない、という立場は認められるべきかもしれない。科学的な命題の正否は、論争の上手下手ではなく、実験によって確かめられるべきであるからだ。

 その日。職場の先輩と、出張の途中、駅のホームで特急を待っている間、私は上の学生のような立場に立たされていたと言えるかもしれない。先輩はホームの電光表示を見上げて、出発までまだ二十分もある、ということを確かめるや、なによりも鞄からタバコの箱を取り出した。きょろきょろとあたりを見回し、やっと「喫煙所」のサインを見つけると、私のほうをちらりと見たきり、そちらに歩き出す。私は黙ってそれに続いた。

「いやまったく」
と先輩は吐き捨てるように言う。
「タバコ呑みには、辛い世の中になったよね」
「そうですねえ」
と私もこたえる。私はタバコを吸わないが、だからといって目の前で吸われて気分を害するほど嫌いというわけではない。相手がいつも世話になっている先輩であれば、なおさらのことだ。

 禁煙だった取引先の工場を出て、先輩はよほど煙に飢えていたのだろう、喫煙所の一〇歩手前で小さな鞄のポケットからライターを探り当て、七歩前で口にくわえたタバコに火をつけ、五歩手前で一息吸うと、息を止めたまま喫煙所に着いて、やっと深く息を吐きだした。いいかげんこれに極まるというべきか、喫煙所のルールを厳しく守っていると言うべきか、難しいところである。

「しかし、どう思う大西。タバコはやっぱりやめないと駄目かな」
目を細めつつ、夏の冷たい雨が降る街を透かして向こうのビルのネオンサインあたりを眺めながら、先輩が言う。
「いやあ、そんなことないと思いますけど」
と私は心にもないことを言う。タバコには客観的に見て健康を害するという証拠が揃っていると思う。だから先輩の健康のことを考えれば、本当に止めるべきだ。そうなのだが、なにもこの一本を吸い終えたら死ぬわけでなし、いくら話題を持ちかけられたからといって、気持ち良さげに吸っている横で、そんなことを言いだすのも無粋なことだと思うのである。
「そうですねえ。私も、タバコ吸いませんけど、吸えたらなあと思うときはありますからねえ」
あまつさえ弁護まで始めてしまうのだった。

「へえ、どんな時に」
と、先輩は興味深げに私の方を見る。家でも職場(の健康診断等)でも虐げられているタバコ吸いの人にとって、もしかしたらこういう展開は珍しいのかも知れない。
「えーと、たとえば時間が一〇分余って文庫本もなにも持ってないとき。それから、彼女と二人で喫茶店でお互い怒っていて、口を開けば捨てぜりふ残して別れるしかない、というとき」
「彼女ってきみ、結婚してるでしょうが」
「してますが、えー、もののたとえです」
「それから」
「そうですねえ。仕事に飽き飽きして、でもお腹ががぼがぼでコーヒーなんて見たくもないときや、お土産屋さんでげっつ格好いいライターを見た時もそうです」
「げッツ」
と先輩はタバコを持った手で軽く前を指差す。それを遮るように、
「なんか、小物に凝るのは面白いですよね」
と言った私を見て、先輩は黙って笑っている。

「それにそうだ、前に、厚底靴って流行したじゃないですか」
「え、うん」
「長いマフラーとか。あれって、靴なら底が厚けりゃ厚いほど、マフラーなら長けりゃ長いほど、偉かったらしいっスね」
「そんなことはないと思うけど。そうなの」
「いや『めざましテレビ』でそう言ってたんです」
「ヒールも高いほど格好いいかなあ」
と先輩は自分の足もとを見る。
「そうなんですか。えーと、そうじゃなくて、なんだ、そう、要するにそうです。長いほど格好いい、というふうになりがちなんだそうです。生物界では」
「セーブツカイってなに」
「はい、なんか、そういう鳥がいるんだそうですよ。鳥なんですが、オスの尾が、こうびょーんと長くて、尾が長いほどメスに好かれるんだそうで」
「ああ、その生物界」
 先輩は、そこに奇妙な生物を見つけた、という顔をして、こっちを見ている。ああ、タバコが吸えたらなあ、と思うべきかもしれない。
「名前は忘れましたが、とにかくなんとかオナガドリです。あ、ほらクジャクもそうです。オスの羽根は何の役にも立ってないんですが、メスは奇麗なオスと交尾したがるんだそうで、結果として世代ごとにどんどん羽根は長くなったり、奇麗になっていくわけですよ。尾羽根が長いオスだけが子供を残せるから」
「ふーん。二八ふーん」
 なんのことだろう。私は時計を見た。三時四〇分をちょっと回ったところだった。電車の時間まで、あと一〇分と少々。

「いや、ここからです。で、何でそういうことになったんだろう、と思うわけですよ。尾が長いオスを好きになるなんて、変じゃないかと。どっちが上手に餌を取れるかと言ったら、そりゃ尾が短いほうなんですから。自分の子が生きのびるためには、尾が短いオスと交尾すべきなんです」
「交尾こうびって、やらしいなあ」
 私はコホ、と咳をしてみせる。先輩は半分ほど吸ったタバコを灰皿に入れると、もう一本吸おうかどうしようか悩んで、結局箱を鞄に戻した。
「で『ハンディキャップ理論』という説明があるそうなんです」
「うん、どういうの」
「えっとですね。メスは二匹のオスと出会います。一方は尾が長くて健康そう、一方は尾が短くて健康そう。どっちを選ぶべきかと」
「好いたらしいほう、でしょう」
「すいたら。えーとだから、尾が長くて健康というのは、よっぽど凄いことなわけですよ。長い尾というハンディを背負っているのに、ちゃんと餌をとって食べているというのは、凄く好いたらしいことです。なんだかわかりませんが。だから、尾が長くて健康そうというのが一種の試練になって、それがオスを選別しているんじゃないかというのが説明です。本当かどうかわかりませんが、そういうのがあるんだそうですよ」
「ふうん。なるほど」
「で、言いたいのはこれからです」
 私は、先輩のほうを見た。いつの間にか新しいタバコをくわえて、今度は火をつけようかどうしようか悩んでいるらしい。
「タバコというのは、ハンディキャップではないでしょうか。非常なハンディだと思うわけです、タバコの箱なり火なりを忘れないで持ち歩かないといけないし、病気のリスクに打ち勝って健康でいないといけない。喫煙所を探さないといけない。吸わないひとにくらべて複雑な人生を生きていると」
「そうでもないと思う、けど」
「いや、そうです。だからハンディキャップなわけです。一方はタバコを吸って健康、もう一方はタバコを吸わないで健康。我々男はどっちの女性を選ぶべきかと」
 先輩は、結局くわえたタバコをハンドバックに戻すと、私の方をもう一回見た。
「なんとなく、正直に言うと、私、タバコを吸っている女性って、魅力的に見えるんですよねえ」
 黙って私の後ろ頭をはたいた先輩は、それ以上は何も言わず、新しい一本も吸わず、ただ雨の降る街を見ていた。私もそうした。覗き込めば先輩が顔を赤らめたところが見えたかもしれないのだが、私もそこまではうぬぼれてはいけないと思う。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む