降ればどしゃぶり

 控えめなノックの音がした。私は書いていた報告書を取り上げると、ぽんとわきにどけて、扉のほうに向き直った。
「はい、どうぞ、開いてますよ」
ドアノブが回って、入ってきたの三十代なかばくらいの女性だ。
「おじゃまいたします」
「ああ、あなたですか。ようこそ敷島さん」
女性はその場で一礼すると、またお世話になります、と言った。私は立ち上がると、事務所の応接セットのほうに女性を案内する。
「秘書が今日も休みなものでね。失礼いたしますよ。コーヒーでよろしかったですね」
「おかまいなく」
等と言いながらコーヒーを入れる。実のところ、この小さな事務所に秘書がいたためしなどない。初めての依頼者ならこれで十分ごまかせるのだが、これで三回目の依頼となる敷島女史はそのことに気が付いているのかどうか、とにかく何も言わない。私はコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐと、湯気の出るそれを依頼者の前に置いた。テーブルに置かれたカップが、こと、と音を立てる。

「『めざましテレビ星占い事件』ではお世話になりました」
「ああ、あれは確か」
と、ソファに腰掛けた私は応える。
「『めざまし』の星占いの文言は、前半分だけ占いだけど、あとの半分はただのお説教だという。あれは難事件でしたね」
「ええ『自分勝手な行動は周りを不快にさせます』や『元気にあいさつすれば好感度アップ』というのは占いでもなんでもないという説明、とても腑に落ちましたわ」
 私は笑ってうなずく。
「その後もお説教が続いていますね。いえ、依頼者に喜んでいただけることが私の喜びです」

「それから『あめふり事件』」
 依頼人は、コーヒーを一口飲むと、低く歌った。
「『あめあめふれふれかあさんが』」
 私は軽く手を挙げた。
「事件は三番でしたね」
「ええ。『あらあらあの子はずぶぬれだ』」
「『柳の根方で泣いている』」
 私がかぶせるように低く歌うと、依頼人が、少し声のボリュームを上げて、さらに続けた。
「『ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷランランラン』」
 私はまたうなずいた。依頼人が、大げさに首を振って見せて、言う。
「あんまりじゃありませんか。雨にぬれて泣いている子の前で、チャプチャプでランランランなんて」
「それを、四番と五番で説明したのでしたね」
「ええ『君きみこのかさ差したまえ』『ぼくならいいんだ母さんの』」
「つまり、そういう人なのだ、という」
「腑に落ちましたわ。怖いくらい」
 依頼人は、喉の奥で、くっく、と笑った。
「ありがとうございます」

「さて、依頼の話ですか。話に入る前に、こちらはもうご存知ですね」
と、私は注意書きの書かれた書類を取り出してテーブルに置く。時間に余裕がないわけではないが、いやそれどころか暇で暇で近所のコンビニでアルバイトでもしようかという勢いだったのだが、いつまでも昔話に付き合ってはいられない。昨日の功績より今日の晩ご飯である。
「ええ、もちろん存じております。もう三回目ですから」
「一応規則ですから。読ませていただきます」
「どうぞ」
「一。説明業は説明を行うことを職務とし、依頼人が納得したことをもって任務の完了とする。依頼人は依頼前に前金で規定料金の半分を納め、残りの半金を依頼解決後に納める。説明人は依頼人が納得するよう、可能な限り説明を重ねる義務を負う、ついに納得できない場合、前金の半額を限度として返金の交渉に応じるものとする」
 私は続けて読みあげる。
「二。依頼人は、説明は証明ではないことに特に注意すること。なにかを説明することは、科学的に証明することと同じではなく、依頼人の納得を求めることが唯一の目的である説明には、実際には不正確であるだけでなく、おのずから省略と簡略化が混在する。空の謎の光は『宇宙人の乗り物』と説明することができる。しかし、これは『宇宙人の乗り物である』と証明したことにはならない。
「三。説明人は説明にコンピュータ、アニメーション、絵、写真等あらゆるメディアを使用できることとするが、必ず使用しなければならないという義務を負うわけではない。依頼人は誠意を持って自らの理解力を発揮し、説明を聞く努力をする義務を負う。
「…理解していただけましたか。ではどうぞこちらに判を」
「はい」
 女性は鞄から印鑑を取り出すと、書類に押した。前金です、と封筒も差し出す。私は形式だけ封筒を確認すると(本当は今すぐにでも中身を数えたかったのだが)、背広の内ポケットに納めた。

「お待たせいたしました。それでは、依頼内容をお伺いいたしましょう」
「ごめんなさいまし。これのことですわ」
「新聞ですね」
「よくご覧になって。ここのところ」
「はい。ええと、阪神リーグ優勝。一八年ぶりの快挙」
「ひどいと思われません」
 私は目をぱちくりした。私は野球にはさほど興味はないが、阪神タイガースというチームがあること、今年優勝したこと、これまで長い間優勝から遠ざかっていたことくらいは知っている。何年ぶりかはよく知らなかったが、たぶん一八年ぶりというのは本当なのだろう。
「ええと、なぜでしょう」
「一八年ぶり一八年ぶりって。まるでとんでもなく長い間優勝しなかったみたいに」
「ああ、それはしかし」
 一八年といえば長い間だ。確かジャイアンツは、もっと頻繁に優勝しているのではなかったか。他の球団も、よく知らないが、そこまでは優勝から遠ざかってないような気がする。
「セ・リーグに、チームは六つありますでしょう」
「ええ。ジャイアンツと、タイガースと、ドラゴンズと、ええと、それから」
「カープにスワローズにベイスターズですわ。ご存知ないの」
「いえいえ、知っていますとも」
「六つの球団が優勝を争うのです。六年に一回優勝したら、並みの球団ということになるのではなくて」
「ああ、そうですね。確かに」
「一八は六のたった三倍です。なのに、どうしてこんなに騒がないといけないのかしら」
「はいはい、なるほど。今わかりました」

 私の灰色の脳細胞(見たことはないが)がようやく回転を始める。
「これは」
「ええ」
「これは、つまり六分の一の確率で優勝するチームが一八年間に一回しか優勝しない確率を求めよ、ということですね」
「……」
と依頼人は黙ってしまった。私はかまわず、テーブルの下から紙と鉛筆を取り出す。
「たとえばコインを投げます。表が出る確率と、裏が出る確率はどちらも二分の一としましょう。十回連続で表が出る確率は、二の十乗分の一、約千分の一になります。ここで注意しなければならないのは、『十回連続で表が出る』かまたは『十回連続で裏が出る』確率は、その倍、五一二分の一だということです」
「ええ、わかります」
「よろしい。では、六チームのリーグ戦の結果、あるチームが優勝する確率は六分の一だとしましょう。優勝しない確率は六分の五です。一八回連続で優勝しない確率は」
「違いますわ」
 私は虚を突かれてペンを止めた。
「一八回ではなく、一七回です。二年ぶりの優勝というのは、一年優勝しなかった、ということなんですから、優勝しなかったのは一七年です」
「ああ、これは失礼。一七回連続ですね」
 私は頭を掻く。説明業の者が説明されてはいけない。
「六分の五の一七乗は、ええと、電卓を使わせていただきますが、ちうちうたこかいなちうちうたこかいなちうちうたこかいなちうちう、と、〇・〇四五ですね。四・五パーセントです」
「ああ」
と、結果を聞いた依頼者は表情を曇らせる。しかし、これが私のテクニックというものだ。すかさず付け加える。
「しかしこれは『どこか特定のチームがそうなる確率』です。さきほどのコインの話と同じで『リーグにそういうチームが一つある確率』は、この六倍にならなければなりません」
「あ、そうですわね」
 依頼者はぽん、と手を叩いた。
「概算ですけどね。ですから、リーグにそういうチームがある確率は、二七パーセント、ということになります。必ずある、というものではありませんが、確かに騒ぐほどのことではありません。今日が燃えるゴミの回収日である確率と、似たようなものですね」
「火・金、ですの」
「ええ」

 簡単な仕事だったが、依頼人は明らかに喜んでいる。私も微笑んでみせる。
「一七年間Bクラスのチームが優勝したからといって、そんなに騒ぐことじゃないのですね。あ、その紙、いただいてもよろしいの」
「ええ、もちろんです。あとでタイプして、お送りしますよ」
「そうしていただくわ」
 依頼人はふたたび鞄を取り出した。報告書の送り先か後金、またはその両方をくれるつもりなのだろう。
「ええと、ところで」
「はい」
「Bクラスというのは、四、五、六位のことです、ね」
「そうですわ」
と依頼人はこともなげに言う。私はあてずっぽうが当たってほっとして、さらに電卓を叩く。
「ええと、ここからはサービスでと。一七年間Bクラスの確率は」
 ちうちう、とキーを叩いて、私はさっと血の気が引くのを感じた。依頼人はじっと私の手元を覗き込んでいる。逃げ場はない。私はおそるおそる、計算結果を告げた。
「え、その。〇・〇〇〇八パーセント。六倍しても、〇・〇〇五パーセント…」
 依頼人は、ぱちり、と鞄の留め金を鳴らすと、立ち上がった。私も慌てて立ち上がる。
「いや、その」
「わたくし、帰らせていただきます。不快だわ」
「その、あの」
 私は無駄と知りながら、なんとか引きとめようと依頼人と入り口の間に立ちふさがる。しかし、小柄な依頼人のどこにそんな力があったのか、私の肩を押すと、依頼人は乱暴にドアを開けた。
「前金は結構。差し上げます。でも、これ以上わたくしから依頼が来ることは、ないと思うことね」
 言い捨てて、元依頼人は出て行った。

 私は力なくため息をつくと、ドアを閉め直し、元のソファに倒れこむようにして座った。私のどこが悪かったのだろう。手元に残ったこの前金で、溜まっている家賃を払うか、スポーツ新聞を買ってくるか、私はしばらく逡巡していた。


※詳しくない方へ:阪神タイガースは一九八六年から二〇〇二年までの一七年間に、実際には二回Aクラスになったことがあります(二位と三位が一回ずつ)。
※文中の計算は概算です。特に年数が少ない場合には、単純に六倍してはいけません。しかし、年数が多い場合には、この計算は近似的に成り立ちます。
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