妻の帰省についていった先の福島で「福島民報」という新聞を読ませてもらった。なぜかふつう新聞はそうすることになっているようだが、一面の下、朝日新聞でいうと「天声人語」にあたる位置に、やっぱりコラムがある。「あぶくま抄」という名前のそこに、興味深いことが書いてあった。いわく、
「東京ではエスカレーターに乗るときに『立っている人』が左、『エスカレーター上を歩く人』が右と、整然と別れているが、一方福島県内にはそういう習慣がない」
これを嘆いて、いずれは東京標準にあわせなければ、という論調だったと思うのだが、難しいのではないかと思う。この手の習慣は、居合わせた人みんなが、日常的に混んでいるエスカレーターに慣れているのでもなければ、なかなか身につかないところだと思うのである。
そもそもエスカレーターに「乗り方」というものが存在すること自体、混み合った世界で肩寄せ合って生きてゆかざるを得ない人々が編み出した、せめて摩擦を少なくして生きてゆく方法である。確かに便利だし必要だけれども、みんなの協力が必要な行為だけれども、どこかせせこましい、そういう知恵を必要としないほうがいい知恵といえばその通りなのだ。例えていえば、こういうことだ。泥棒がいてもいなくても、ドアには念のため鍵を掛けたほうがよい。しかし、掛けないで外出できるのは、うらやましいことである。
とはいえ。個人的な意見を書くならば、何ヶ月か東京で電車通勤をしたあと水戸にやってきて、私も「あぶくま抄」筆者と同様の感想を持った。東京が良いとか、水戸が悪いとかいうわけではない。しかし、一つ言えることは、人ごみでの身の処し方、どうすれば混雑した中で円滑な人の移動が実現するか、ということについて、やはり水戸の人間は熟練度が足りないように感じてしまう。特に高校生くらいの男女に、それは顕著だ。
水戸においても、エスカレーターではおおむね左側に「立っている人の列」ができる。しかし、右側に「歩く人の列」ができるかどうかは、そこにいる人によって違う。右側の列で、ぼう、と立っている人が、けっこういるのだ。それも歩くのが辛いお年寄りや妊婦ではなく、高校生くらいの若者であることが多いような気がする。
乱暴なことを書くようだが、どうにもそういう高校生を見ると、後ろから頭を思いっきりはたきたくなる。いや、冷静になれば「ぼうっと立っていた」罪に対して、「いきなり後ろ頭を叩かれる」という罰はどう考えても重すぎる。つまり、ええと、これはこういうことだ。変な例えになるが、たとえば私の左手が同じようにぼうっとしていたら、右手にぱちん、と叩かれるだろう。かなり痛く叩かれても、それは左手の自業自得だと私は判断する。客観的に見ると変なことを書いたが、この感じ、なんとか汲み取ってほしい。
自己分析を試みるに、私は歳を取って、「交通」あるいは「社会」と自分自身を同一に見てしまうようになっているのかもしれない。自分が「右側にぼうっと立っている高校生」によって全く影響を受けていない場合でさえ、同じようないらだたしい気持ちを感じるのである。これは、自分の組んだ機械やプログラムが滑らかに動かないときに感じるものと同じだ。
・道路で、交差点を右折する車がもう少し前に進んで交差点中央で待てば、後ろの車が前に進めるのに、というような場合。
・バスで、乗ってすぐ入り口のそばに立った人について、中まで入ってそこで待てば次の人が乗りやすいのに、という場合。
・自動改札の前で財布を取り出してなにやら探している。
・電車が隣の駅のホームで人を乗り降りさせている間、ずっと閉まっている踏切。
探せばもっとあるだろう。ここで注意したいのだが、東京では特にこういうことが少なくて、水戸には多い、と言っているわけではなくて、たまたま何度か水戸で見かけたので、こういうことを書いてみたくなった、という程度のことである。ここで言いたいことは、ボトルネックを作る行為、「ちょっと個人が我慢/気をつけることで多数の人が円滑に動ける」という場面を見ると、じれったくてしかたがないということである。そういえば、上の最後の例では踏切を待っている人より電車に乗っている人のほうが多いのでちょっと微妙だが、少数の利益を多数の迷惑に優先させる行為には、不条理な憤りを感じてしまう。
しかも、自分が迷惑をかけられたのではないのに、である。よく見れば、待っている人たちは別にいらいらしてはいないかもしれない。「まちのねずみいなかのねずみ」風に田舎のいいところを書くなら、そんなことでいらいらしないのが田舎の美徳なのである。やはり、社会と自分を過剰に同一視しているのかもしれない。
と、駅のホームに降りる階段の、「下り」側を掛け登ってきたちょっぴり太めの女子高生をなんとか避けて、電車を待つ間、私はざっと以上のような、実のあるようなないようなことを考えていた。やがて着いた電車からたくさんの学生、高校生、サラリーマンが吐き出される。それなりにラッシュではある、水戸駅、朝七時四九分。降りる人を待つ私の横を、と、一人の高校生がぱっと追い越して、電車に乗った。あっ、なんということをするのか。まだ降りている人がいるのに。
私はその高校生に注意しただろうか。「行儀の悪いことをするな」と叱りつけただろうか。円滑に動かないシステムに挟まった石を取り除いたろうか。
いや、私はただ電車に乗り込んで、ぼうっと窓の外を見ていただけだった。近頃は下手な注意をすると、その酬いは「ブスっといかれる」ということであるらしいので、それを思うと、なんともどうにも言うことはできないのだ。死んだら痛いじゃないか。痛くないかもしれないが、残された妻は娘はいかんとしよう。ぶるぶるぶる。
ところで私は社会と自分を同一視していたのではなかったか。悟りへの道は、まだまだ遠い気がする。