人は誰でも、漠然とした物事のつながりにパターンを見出す能力を持っている。この混沌とした世界を理解するための手がかりとして「AとBが等しい」「Aが起こると次にBが起こる」といったことを常に発見し続けているのだ。これは我々がそういうふうに訓練されているとか、文化的にそれが推奨されるとかいうことではなくて、もう少し基本的な「そうできている」という類の性質であると、私には思える。たとえば、私の一歳七ヶ月の娘は、今「おんなじー」ものの発見にもう夢中だ。誰も教えていないのに、テレビに亀が出てきたら亀の絵が描いてある絵本を探して、見比べて喜んでいる。存在そのものにまでさかのぼる、根源的な楽しさがあるのではないか。
この能力が、生物的に本来備わったものだとして、この認識力は、本当に適正な量よりも少し大げさに設定されているらしい。たとえば、白い壁に点が三つ逆三角形に並んでいると(∵)、それだけで人間の顔に見える。傷んだAを食べた後にひどく腹を壊したことがあると、他のAには害はないと分かっていても二度と食べられなくなる。こういうことが起こるのは、一つには「怪しげなものを誤って回避したほうが誤って衝突するよりマシ(疑わしきは罰する)」という説明ができるけれども、今となっては多少厄介な機能であることは確かである。「この民間療法は効く」というときの思い込みなど、詐欺に利用されたりする場合もあるのだ。
ところが、私だけではないと思うが、こういう事例をいろいろ耳にしていると、巷間で言われている因果関係、パターンの類を信用しなくなってゆくきらいがある。なにしろ自然な状態としては「血液型で性格は決まる」「耳たぶが大きい人は出世する」というような当り障りのないパターンは信頼してしまうものである。これに対して、一応の科学的手法の訓練を受けていると、こういうものは信用ならない、あるいは、人間は容易に誤ったパターンを信用するので慎重に考えなければならない、とわかってくる。それはいいことなのだけれども、周囲の大多数の人とバランスをとろうとして、過剰に懐疑的になってしまう傾向があるのではないかと思うのである。
今回、ちょっと冒頭からちょっとややこしいことを書いたので、つづめて言う。とにかく私は、ちょっと疑いすぎである。新聞を読んでは、温暖化もオゾンホールも異常気象も環境破壊が原因ではなく偶然ではないかと思う。少年犯罪が増えたと聞くと、それは本当はランダムな事柄の単なる揺らぎなのではないかと疑う。株価が上がったのも下がったのもこれといって原因はないと考える。考えるだけでなくて口に出して周囲に言ってしまう。とにかくそういうところから思考を出発してしまう癖がついているのだ。
いい癖なのかもしれない。現実問題として、そうでない人より、いくらかは詐欺に引っかかりにくいとも思う。しかし、なんでもかんでも疑ってかかるというのは、それはそれでいいことではない。テレビで「日本シリーズで二連敗したあと優勝したケースはこれまで」みたいな話を聞くだに、いちいち「両者の実力が五分として二連敗したチームがこのあとシリーズを制するには五回のうち四回勝たねばならずその確率と比較しなければ」云々と口をはさむのは、周囲にも迷惑だし、自分の精神衛生上もあまりいいことではない、ような気もするのである。
さて、同じく野球の用語で「得点圏打率」という言葉がある。得点圏というのは二塁ないし三塁のことで、このどちらかまたは両方にランナーがいる状態で打席が回ってきた場合、これまでどれだけの比率で安打が打てたか、という数字である。自分の打席全部を総計して計算する「打率」と異なり「チャンスにおける」という限定条件がつくわけである。得点圏打率と打率を比較して、得点圏打率が特に高いバッターは「チャンスに強い」とされる。大リーグの言い方だと思うが「クラッチヒッター」なんて言ったりもする。
本能的に、と言うと言い過ぎだが、これを聞くだに、どうにもうさんくささを感じてしまう。こうした分析はどの程度意味のあることなのだろう。限られた場合をのぞき、バッターはどんな状況であれ、安打を打とうと思って打席に入っている。塁上にランナーがいようといまいと、味方がリードしていてもそうでなくても、はたまた点差が一点であれ十点であれ、手を抜いているということは、まあ、ない気がする。だとすれば、選手は常に全力を出しているのであり、チャンスかどうかで打率が変わるというのも、おかしな話ではないか(※)。
これは、得点圏打率の特に高い選手がいる、ということとは別の話である。そもそも「二塁か三塁にランナーがいるときに打席が回ってくる」ということ自体、一試合でそうたびたびあることではない。普通の打率は、レギュラーなら一試合四、五回回ってくる全打席に基づいて計算されるので、これに比べてサンプル数が少なく、したがって統計的数値としてはうんと確度が下がるわけである。サンプル数が少ないということはそれだけ派手な数字(十割なり、六割六分七厘なり)が出やすいところでもある。以上、まとめると「チャンスになれば力を出す」ということに対する疑い、そして得点圏打率の算出基礎への疑いを感じるわけである。
私があるとき、この話を仲間うちでしていたところ、その場にいた全員から「そんなことはないのではないか」という反応を得てびっくりしたことがある。いろいろあって、周囲にいるのは統計に関して確かな知識のある人ばかり、という状況なのである。
「やっぱり精神的なものは大きいんとちゃうかなあ」
「いやそこはプロやし、そういう緊張感をパワーに変える方法は、みんな知っとるんとちゃうんでしょうか」
「そうとしても、高いレベルの中に上手下手があって、声援や状況によってバッティングのレベルが変化するちうことは、あってええんやないかな」
「少なくとも、統計的に意味のある数字かどうかは考えなあかんでしょう」
と反論はしたものの、ここで急に腑に落ちた感じがした。確かに自分が今まで見聞きしてきた世界(それなりにプロである)においては「実戦に強いタイプ」という人はやはりいる。そうであれば、どうしてプロ野球だけがその例外だと言えるだろう。こと精神面ということでは、意外に我々と似たようなものなのではないか。とすれば、チャンスかどうかということがその人のバッティングに影響を与えるということは、あってもいい。
数字、特に「率」には確かなものとそうでないものがあるということは、一応正しい。でも「チャンスになれば力を出す」ということへの疑いには、合理的な理由がない、かもしれない。なんとなくハードでエッジな懐疑人生から後退してしまっているような気もするのだが、どきどきしながら試合を見ていて、不確かな未来に一筋の光を得られるなら、ここで後退するのも意味はある、ようにも思う。
私の、このサイトでいうと「得点圏打率」に相当するものは「雑文祭」のようなイベントに合わせて書いた、たくさんの人の目に触れる可能性のある文章の出来不出来ということになるのだと思う。私が今までそうしたものにどういうものを書いてきたかということは、トップページから「お知らせ集」を辿っていただくとだいたいわかるようになっているが、さていかがなものか。なんとなく「チャンスに弱いバッター」になるのではないかという気はするのである。幸いにして雑文には「落とせない試合」なんてものはない。次回はがんばれ、ジャッキー大西。