リチウムを煮ながら

 自分ではそれと気づかないまま、しばらく居眠りをしていたらしい。椅子の上で我に返った私は、床から這い上がってくるような寒気を感じて、慌ててコートの前をかきあわせた。何をやっているんだろう。何があろうと、いま風邪を引くわけにはいかないのに。

 なにかとても虚無的な夢を見たような気がするのだが、目が覚めた私がいるのも似たような環境である。大学の一隅、コンクリート作りの寒々とした、なかば打ち捨てられたような感がある小部屋だった。斜面を掘り込んで建てられた二階建ての建物の、その斜面側の一階にあるこの部屋は、昼でも薄暗く、いつでもかすかに薬品の臭いがたちこめている。

 腕時計を見る。眠っていたのは五分くらいらしい。時刻は午後十時十五分。大学の、特に理系の研究室にとってはさほど非常識な時間というわけではない。ただ、一月の午後十時は暗い。大学が建てられた、大阪と兵庫県の境目くらいにある丘の上は、全国的に見て決して寒い土地ではないのだが、外の寒気と私を隔てるのは、半分がたさび付いて開かない古い鉄製のサッシと、あちこちがあり得ない方向にねじまがったブラインドだけなのだった。

 私は、こわばった足をようよう伸ばして立ち上がった。目の前にある装置、子馬くらいの大きさのそれをしばらく眺めて、真空計の読みをノートに記録する。あとひと月ほどで修士論文をどうにかでっち上げなければならないという、人生におけるそれなりに深刻な事態の一つに陥っている今の私だったが、とりあえず今夜すべきことは、この装置の一部となってもうしばらくここにいることだ。

 装置は、概略、机の上に小さな釣鐘を載せたような形をしている。釣鐘が厚いガラスでできていて、中のごちゃごちゃした構造が見通せるので、ちょっとマッドサイエンティストが使う実験器具のようで格好いい。部屋に満ちている騒音は装置の一部である真空ポンプが立てるもので、要するに、この釣鐘の中は真空に保たれているのだった。まばゆく光っている真空計が、覗き込んだ私にわずかなぬくもりを与えるとともに、中の真空度は三かける十のマイナス五乗トール、と告げている。

 この装置、蒸着装置が、真実どういうものなのか、つまり、どこかからこの形で買ったものなのか、それとも先輩の誰かが設計し組み立てたものなのか、私にはよくわからない。一つ言えることは、仮に最初これがどこかのメーカーの製品だったとしても、あちこち手を加えられ、最初の姿とは似ても似つかないものになっている、ということだった。焦げ付き、大胆な改造を受け、磨耗し、ぞんざいに修理され、しかしなんとか動いている。大切な研究室の備品だった。

 修士課程の学生の仕事が毎日研究室でコーヒーを飲んだり文房具を発注したりすることであるように、蒸着装置の仕事は蒸着することである。「蒸着」とはなんであるかについては下を読んでもらうとして、蒸着に必要な機能は多くない。大き目の真空チャンバーとそこを真空に保つためのポンプ、ヒーター、それから「蒸着されるもの」を固定する台、以上四つである。

 原理も簡単だ。真空にしたハコの中で、ヒーターの上に「蒸着するもの」を置いて加熱する。すると「蒸着するもの」は、少し離れた「蒸着されるもの」まで真空中を飛んでいって、そこにひっつく。「蒸着されるもの」の上に薄く「蒸着するもの」の膜ができるわけである。私が欲しいのは、酸化リチウム(そういう物質がある)の薄い膜が、親指の爪くらいの大きさの無酸素銅(そういう銅がある)の板の上についたもので、研究室ではこれを「ターゲット」と称していた。あとでそれを本番の実験に使うつもりなのだが、要するにそれで私はこの冬の夜を研究室のひと気のない一室で過ごしているのだった。

 しかし、厚いガラス釣鐘の向こうの真空度は遅々として上がらなかった。蒸着をするためにはヒーター(私がペンチでひん曲げた薄いタンタルの板)の上のリチウムを、赤熱するくらい熱さなければならない。ところが、ヒーターに少し電流を流し、温度をわずかに上げただけで、ヒーターその他から出たガスが装置全体の真空度を大きく下げてしまう。真空ポンプの性能や真空計の都合で、真空度を悪くするといろいろと問題が出てくるので、結局、真空計をにらみながらヒーター温度をだましだまし上げてゆく、ということになるのだ。

 こうしてぼちぼちと熱されているヒーターの上のリチウムは、ここから見たところまだほとんど変化はない。これが煮立ったりするのは、蒸着作業の最後の瞬間だけだ。ヒーターさえ入っていなければしばらく装置の前を離れて散歩してきてもいいのだが、熱源を放置したまま遊びに行くのはやはり不安だった。あれこれ後始末もいれてあと三、四時間くらいかかるだろうか。これもやはり大学の研究室の常として、朝は遅いので、そのあたりで下宿の自分の部屋に帰れれば、とりあえず十分な睡眠が取れる。ここしばらく睡眠が特に不足しているわけではないし、徹夜が珍しいわけでもないが、数日後に控えた自分の実験本番に備えて、今は楽をしておきたかった。

 私はさっき居眠りをしていた椅子に、ふたたび腰掛けた。椅子が小さく悲鳴をあげて、また静かになる。傍らの漫画雑誌を読もうと取り上げて、巻尾の「ハロー・ジャンプガイ」などという、編集後記のような場所まで読み尽くしてしまったことを思い出し、また元に戻す。さっき、私はどういう夢を見たのだったろう。思い出せそうで、思い出せない。何か、うすら寒い、まるで誰かにあざ笑われるような夢だったような気がするのだが。

 その奇妙な感覚がなんだったのか分からないまま、私はもう少しだけヒーターの温度を上げて、ゆっくりと上昇する真空計の針を見つめた。この夢になにか説明がついたような気がしたのは、次の日の朝方である。明けて平成七年一月一七日早朝。突然の激しい揺れに布団からたたき出された私は、昨日とは違った世界がそこに広がっていることを知ることになる。このリチウム・ターゲットを用いた本番の実験は、それから実に一年近くも延期されることになったのである。

 ちなみに、阪神大震災をまともに受けながら、この年経た蒸着装置は全く損傷を受けなかった。たぶん、構造が単純だからではないかと思う。


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