なぜ大西は筆ペンを使えないの?

 ある英会話学校の広告で「なぜ日本人は英語を使えないの?」と題したものがある。やや大胆な、いけすかない物言いで、だから気になって、よけいなことを考えてしまうのかも知れない。このポスターの中に、またいくつかのコピーが書かれている。外国人の、たぶん英語教師の写真が添えられて、それぞれがアドバイスを語っているという形である。そのうちの一つがこれだ。
「あなたも日本語を勉強して覚えたわけではないでしょう」
 いや、言いたいことは分かる。英語を勉強するには、学校でがりがりやるばかりではないですよ、単語帳を一生懸命覚えることが英語にうまくなることではありませんよ、ということなのだろう。それはその通りだ。

 ただ、ひとつ忘れていることがある。我々日本人の多くは、小学校から始まって中学、人によっては高校、大学の一部にいたるまで、週何時間か必ず「国語」を勉強している、ということだ。我々日本人は、日本語を、学校で勉強して、覚えているではないか。よく考えたら、この外国人の英会話教師(たぶん)だって、英語を学校で勉強したことがあるはずなのだ。逆に、そうでない人に英語を教わるというのは、ちょっと怖い。

 もちろん私自身、学校で日本語のすべてを教わったかというと、そんなことはない。読み書きはともかくとして、特に「日本語会話」というか、日本語を聞きとり、話す技能に関しては、学校の授業が占めた割合はさほどのものではない。広告がいいたいのも、要するにそういうことだろう。しかし、では国語の勉強なんてまったくなければよかった、青春の時間の無駄だったというと、それも言い過ぎである。学校で教わらなかったら知らないままだったことも、やっぱりある。

 要するにこれは、経験から学べる知識には限界がある、というべきかもしれない。いや、本当の天才であれば話は別だ。周囲の混沌とした宇宙、悪文名文取り混ぜて存在するこの世界に、なにか、法則のようなものを自力で発見し、人を感動させる名文や、誰にでも納得できる達意の文章を自然に書くことができるようになる。そういうことはある。しかし、そこのところをあっさりパスして、教科書や、教師のような他の誰かの知恵に頼るというのは、実はそう悪いアイデアでもない。

 ニュートンが言ったという、例の、巨人の肩のたとえの話になるのだが、学校の授業の内容は、結局のところ、自分より遥かに多くの文章に接している、自分一人より遥かに多い人数の「先生」たちによる知識の結晶であって、わずかな労力で多量の知識経験技能を身に付けられるように工夫されている。教師や教科書篇集者の無能でその目的はうまく達せられていないかも知れないが、少なくとも目指すところはそれだ。考えてみれば英会話学校こそ、行き当たりばったりに海外で十年ほど暮らして英語を覚えようとするのではなくて、その長年の英語教育経験から得られた、魔法のような「英会話の秘訣」を教えてくれる場所なのではないか。

 とまあ、そのようなことを考えて、実は私は先日から通信教育のパンフレットなど取り寄せているのである。新聞の折り込み広告から葉書を切り取り、住所氏名その他を書き込み、ポストに投函したのだ。取り寄せたのは二つ。「速習ふでペン講座」と「実用ボールペン字講座」だ。日ペンの美子ちゃんがやっていた、あれだ。正確にはあれの同業者である。

 なぜかというと私の字が汚いからなのだが、この、私の字が汚いということに関して、実はそれほど面白い話にはならない。私の書いた「し」がどうみても「レ」に見えるとか、「カクシゴト」と書いたら「カクツゴト」と読まれてしまうとか、そういうおもしろエピソード満載の文章にできればそれはそれである意味幸せなのだが、そうではないのだ。書いた字が汚いおかげでラブレターに返事をもらえなかった、なんてことも私の経験にはない。いやほんとう。

 私が悩んでいるのは、字の実用的側面ではなく、もっぱら美的側面である。手帳やノートに書いた字を他人に分かってもらえなくて困る、ということはない。しかし、いくらパソコンやプリンターが私のような無力な人間にも力を与えてくれる二一世紀とはいえ、結婚式の披露宴の会場の入り口のところにあるあれは何と言うのか住所氏名を書く冊子に向かったとき、自分が抜き差しならない状況に陥ったことを知るのは二〇世紀と変わらないのである。字が読み取りにくいわけではない。あとで誰かが帳面を繰って、なんだかミミズののたくったようなわけのわからないサインがある、と思うことはない。しかし、隣の人の字と比べるだに、いかにもへたくそな、読めればいいやの字がそこにあるのはなんとも恥ずかしいのである。

 これに関しては、私以外のほとんどの、推定九五パーセントくらいの人間が鼻歌まじりでこなしている気がする。
「あなたも習字を勉強して覚えたわけではないでしょう」
なのだが、どうもみんなはどこかで勉強して、覚えているらしいのである。そういえば、小学校あたりで習字の時間というものがあったのは確かなのだが、私はあまりに下手な字しか書けず、しかもいくら練習してもまったくうまくなる感じがしなかったので、もっぱら半紙を真っ黒に塗ったり手のひらを真っ黒に塗ったりノートの一ページを真っ黒に塗ったりすることに費やしていた。それが良くなかったのだろうなあと、今思う。

 要するに、私の才能を超えているのである。ここには、何か法則なり、秘訣なりがある。どうやれば書いた字がうまく見えるか、この世界に通じた者だけが知っているなにかがある。しかし、私はこれまで、周囲の混沌とした習字世界をぼさっと見ていただけだったので、ついに何も発見できず、披露宴の入り口のところで鉛筆で書くように自分の住所氏名を書いて、激しい自己嫌悪に陥っているのである。では、天才ならぬ身、それにもう大人なんだしここは一つ素直にお金で解決することにして、知っている人に教わろうではないか。この道の教育のプロに、コツをちょこちょこっと教えてもらって楽してぐんとうまくなろうではないか。

 というわけで、来たきた、詳しい内容が書かれたパンフレットと、申込書が送られてきた。それがどのようなものか、私は結局どっちを選んだのかはたまたどっちも選ばなかったのか、以下、次回に続くのである。


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