最終回は突然に

 まず一言。長らくご愛顧をいただいたこの「大西科学における最近の研究内容」は諸事情により今回をもって最終回とさせていただく、というような話では、ないので、ご安心下さい。タイトル紛らわしくてすいません。

 さて本題。ギャンブルやその他勝負の世界で「勝ち逃げ」という言葉がある。勝負に勝って、逃げる、というか、勝ったところでやめてしまうことで、特に麻雀のような明確な胴元がいないギャンブルだと(残念ながら私はそれほど詳しいわけではないけれども)、これが「逃げ」である気持ちがよくわかる気がする。大きく負け越したプレイヤーは当然、復仇する機会を与えて欲しい、ゲームを続けて欲しいと思うのだが、勝ったプレイヤーがゲームの終了を勝手に宣言してしまう。確かにこれは腑に落ちない。もう少しなんとかならないかと思う。

 思うに、ゲームをどこまで続けて止めるかは、ゲームのルールの外にあって、はっきり決まってない事柄なので、そこがいけないのだろう。もちろん、最初から「何があっても今晩は半荘(麻雀における勝負の一単位)二回まで」あるいは「午後十時を過ぎると新しいゲームに入らない」というような取り決めをしてからゲームを始めればいいのだが、そのへんを曖昧にして開始してしまった場合、ゲームの終了はプレイヤーの総意に基づく、はなはだ禍根を残しやすいものになる。ゲームの相手がパチンコ台やスロットマシーンならこういうことはないわけだが、そういうわけで、麻雀は徹夜で続いてゆくのである。

 しかし、あらかじめ終了が予告されているゲームは幸せだろうか。そんなことはないと思う。以下、やや細々とした話になるのだが、たとえば「囚人のジレンマ」のようなゲームを研究するとき、繰り返しが何回目で終わるかについてプレイヤーには秘密にされていなければならない、という原則がある。

 これについては以前もここで、しかも何度も触れたことがあるので申し訳ないのだが、もう一度、ごく簡単に説明をしよう。「囚人のジレンマ」というのは、二人のプレイヤーがそれぞれ「裏切る」「協力する」のどちらかを選んで、結果から得られる点数を競うゲームの、ある形式につけられた名前である。ジャンケンに似ているが、手が二つしかないと思えば話が早い。

 ゲームの結果は自分と相手の手の組み合わせで決まる。勝ち負けではなく、自分は10点相手は2点というふうに得点で結果が得られるのが、ジャンケンとはちょっと違う。点数表の形式はいろいろあるが、特にそのうち次のようなタイプを「囚人のジレンマ」という名前で呼んでいる。1、相手を裏切ると大きな得点を得る。2、自分も相手も裏切りを選んでしまうと両プレイヤーとも得られる利益は最低になる。3、二人で協力し合う場合は裏切り成功ほどではないけれども、相手と自分の合計得点としては最も高い。麻雀のように、自分が勝つぶんだけ相手が負ける、というタイプのゲームではないことに注意(専門用語で「非零和ゲーム」という)。

 できれば相手には協力を選んでもらって自分は裏切りたいのだが、相手もそう考えているのでそうはいかない。つまりそこのところが「ジレンマ」だという、そういうものである。さらに、以上を基礎として「繰り返し囚人のジレンマ」とも呼ばれる形式では、このルールでもって何回も繰り返し、たとえば百回なら百回ゲームを行い、得点の合計を競う。

 さてここで、百回なら百回と書いたが、この「百回」がプレイヤー、つまり自分と相手に対して明らかになっていると、どういうことになるか。最後になって裏切る、という戦略が出てきて、ややこしいことになるのである。

「繰り返し囚人のジレンマ」では、「裏切り」「協力」を選ぶゲームが連続して繰り返されるので、前回裏切られたので今回は仕返しする、という行動が可能になる。一般に、この「報復」という選択があるので、安易に「裏切り」は選びにくく、むしろ相手と基本的には協力する、建設的な行動が高い得点を得る傾向にある。などと書くとなんだ気分的なものかと思うが、実際にやってみると本当にそうなるそうである。

 ところが、今回が最終回、ということになったらどうか。ことここにいたると、もう「次の回」はないので、相手を裏切ってもかまわない。これは数学的な「ゲーム」なので、数日後また同じ相手とゲームを始めるとか、あるいは後で裏の暗がりに連れ込まれてぼこぼこにされるとか、そういう雑念は断じて排しなければならない。「相手よりも高い点数を得る」という目的を真摯に追求するなら、絶対に裏切らなければならないのである。

 それはそれでいいじゃないかと思わないでもないのだが、問題は最終回だけにとどまらない。「最終回はどのみち裏切られる(報復される)のだから、最終回の前の回も裏切って構わないはずだ」等と考えることができるのである。そうすると、その前も裏切るべきだし、ということはその前だって裏切るべきだ、ということになる。こうなると、ちょっと考えただけでは、どういうことなのかよくわからない。なにぶん複雑なことである。

 だからそれはそれでいいのだ、そういうゲームなんだ、という立場も、もちろんあるだろう。ただ、数学的に純粋な「繰り返し囚人のジレンマ」を研究しようと思うときは、あっさり最終回がいつかを秘密にすれば、話がずいぶん単純になる。つまり、要約すると「繰り返し囚人のジレンマ」と一回きりの「囚人のジレンマ」が違うタイプのゲームであって、プレイヤーの選択も変わってくる。それはゲームがもうすぐ終わるか、まだまだ続くかという判断によるわけである。

 昔、このへんのアイデアを扱ったSFを読んだことがある。自己増殖する能力を持たされた機械の集合体(いわゆるバーサーカー)が、ゲーム理論をもとに、これから我々機械はどうすべきかについて議論を行っている。ルールが「繰り返し囚人のジレンマ」であれば、取るべきは基本的に「協調」行動である。出会う相手をいきなり攻撃するなんてことはもってのほかだ。しかし、ルールが一回きりの「囚人のジレンマ」であればどうか。あるいは、いついかなるときにも「今回が最終回」にできる強力な武器を双方または片方が持っていればどうか。そういうことであれば、確かに裏切るほうが高得点を得られる。報復の機会はないかもしれないからだ。そういうわけでバーサーカーは、いつか自分より強い敵に出会い、相手に滅ぼされる、そのときまで戦いつづける。

 妙に納得してしまうが、この考え方はむしろ、無限の生命をもつこともできる機械生命体よりも、常命の人間にこそふさわしい戦略なのかもしれない、と思った。協調には協調をもってこたえ、裏切りには復讐を行って相手を罰する戦略は「ゲームがずっと続く」という仮定のもとでしか機能しない。機械にとってはもしかしたら世の中はそういうものかもしれないのだが、当たり前の話、人間にとってはそうではないのである。どこかで自分の命は終わるのだから、ゲーム終了が「ある」ということだけは最初から決められているのだ。

 そう、我々にとってゲームはいつか終わるものだが、それがいつであるかは、曖昧模糊とした確率でしかわからない。ある日目が覚めてみたら(いや覚めなかったというそのことで)「昨日が最終回だった」ということがわかるようになっている。これはゲーム理論的には非常に幸せなことかもしれない。みんながみんな「明日死ぬ」ということがわかるようになったら、犯罪がうんと増加するのではないか。

 さらに言えば、もしやいくつかの宗教にある仮定的な死後の世界は、人間にとってもゲームを無限に延長する機能がある(あった)のではないかと思うのだが、そこまで踏み込むとちょっと私にとって背伸びした議論になる。とりあえず、ゲームが長く続く、今日と変わらない明日が来る、と思っている人ほど「協調」を選びやすい、ということは言えるだろう。なんだか当たり前の結論なのだが、つまり、ことほど左様に、世界の平和は大事なのである。今日と変わらない明日のために。ラブアンドピース。


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