プレゼントを君に

 新聞に連載されていた「サザエさん」の四コマ漫画に、こういうのがあった。サザエさんとその知人らしき女性が街角で出会い、話をする。今年のお歳暮なんになさいますか、いつものあれをお贈りしようと思っています。うちもいつものあれなんです。では差額三百円をどうぞ、チャリン。

 ここには真実と同時に虚構がある。まずは、決まりきった大人のつきあいにうんざりというのは一種の真実だろう。欲しくもないお歳暮というのはやはり存在していて、それが毎年決まっているとなると確かに虚礼廃止を叫びたくなる。その一方で、差額を相手に払うというのは虚構であって、そこまで行くと何かが違う。自分よりも相手のほうが三百円分だけ偉いのか、ときっと思う。もちろん、お歳暮の習慣そのものをきっぱりやめてしまうのでは面白くもなんともないので、三百円の差額を作ったここがつまり長谷川町子の偉大なる才能というものである。

 しかし、上の真実にもかかわらず、すべてのお歳暮やお中元が煩わしくいとわしいものか、すべての内祝いができればお金で欲しかったものかというと、そんなことはない。なんとも当たり前のことを偉そうに書くようだが、要するに、自分が「欲しいもの」と実際に「もらうもの」が微妙に(あるいは大きく)違うのが原因であって、ぴたり欲しいものを送ってくれる人がいたらそれは歓迎すべきものだ。それだけのことである。

 想像してみよう。お歳暮のカタログか何かを眺めて、金額で分類し、一定額、たとえば三千円なら三千円で買えるものだけを集めて、階段状にずらりと並べる。ここには、金属のイオン化傾向よろしく主観的な優劣がつけられるだろう。列の端、階段の上のほうには、珍しい名産品やちょうど切らしている洗剤のような「欲しいもの」があって、反対の端には顔写真入り絵皿や「ホヤ」といった、いやべつにホヤを差別するわけではないが、そういう「欲しくもなんともないもの」がある。この階段のどこかに(H2)と書いてあるところがあって、それが「お金」なのである。えっ、ええ、あ、そう。惜しいなあ、これ、高校で化学を習った人なら絶対ピンと来るたとえなんだけどなあ。

 こういう無理なたとえはともかく、三千円のお金があれば、このリストに載っているものは何でも買える。だから、現金三千円よりも好ましいものはこのリストにない、と普通は考えるはずである。サザエさんもそう言っているのかもしれない。ところが、ちょっと待った、そうではないと思うのである。お金よりも好ましいものは確かにこの世にある。いや、愛とか友情とかそういうことを言いたいのではない。うんと物質的な、お歳暮カタログに載っているようなのでも、物のほうが嬉しい場合があるのではないか。

 お金よりも嬉しいものが存在するかどうかについては、「一定額」の額に影響される気がする。たとえば、私はかなりトンカツというフライ料理が好きな男なのだが、極端な話「百万円」と「百万円分のトンカツ」では、遺憾ながら「百万円」のほうが上であると思う。ところが、金額が千円ならどうか。これが驚き、現金千円よりも、トンカツ千円分のほうがかなり嬉しい気がするのである。考えてみて欲しい。お昼時、開けたお弁当箱に入っているものとして、トンカツと千円札とどっちがいいか。

 トンカツトンカツとなんだか生々しいが、これはお饅頭でもいいし、お煎餅でもケーキでもいい。なんなら灯油でもタオルでも石けんでもいい。どうも、額が千円くらいになると「現金千円プレゼント」より嬉しい千円の商品がぞろぞろある気がするのである。何が嬉しくて何がそうでないかについては個人差があると思うので、これをお読みのあなたに「わしはそうは思わんけどなあ」と言われてしまうとそれまでなのだが、千円持っていても買わないけど千円分のこれをもらうととても嬉しい、というものがあるのだ。ハムとか、辛子明太子とか、カップの上でドリップするコーヒーなんかが私にとってそういうものである。

 ここは重要なので、もう一つ具体的な例を挙げておこう。私は、ずいぶん長いことDDIポケットのPHSを使っているが、最近、このポイント制度が変わった。この場合の「ポイント」というのは毎月の請求額によって決まる、ちょうどクレジットカードでよくあるアレと似たようなものなのだが、とにかくDDIポケットにはそういう制度がある。これを一年ほど貯めておくといろいろなプレゼントがもらえることになっていた。うちでは夫婦してこのPHSを使っているので、これがけっこう知らないうちにもりもり貯まる。貯まったあげく「焼肉セット」などというものをもらったこともある。これがなんとも、ひどく嬉しかったのである。家族で、涙を流しながら食べた。

 ところが、これがこのたび廃止された。いちおう、ポイント制度自体は存続していて、機種交換などのときにポイントを使用して手数料を無料にできるとのことなのだが、ひどく悲しかった。もちろん、DDIポケットのほうにもいろんな事情はあるのだろう。果てのない撤退戦の中、またひとつトーチカを放棄し、戦線を整理して防備を固めるような、苦渋の決断なのだろうと理解して、それでも悲しいのである。そんなお金なんかいいのだ。モノがもらえるからいいんじゃないか。モノが。千円二千円の手数料をまけてもらえても、「焼肉」が家に届いたときの感動と比すべきもない。あなたはそうは思われないか。

 さて、ここまで来て、やっと前回の続きが書ける。前回を読み返す必要はない。あらすじとして「私の字が汚いので通信教育のパンフレットを申し込んだ。『実用ボールペン字講座』と『速習筆ペン講座』はたしてどっちを習うべきか」とだけ知っておいていただければ十分なのだが、というわけで、二つの講座のどちらかを選ぶことになった。どちらも選ばないという選択肢ももちろんあるが、両方習うということはできない。

 パンフレットを読んだ限りでは「結婚式の芳名帳で役立つのは筆ペン講座のほうだが、日常効果を実感できるのはボールペン字講座」という感じである。どちらも絶対値として字がうまくなるので、結婚式で恥をかかないという目的は達せられそうに思う。受講料は(たまたま)全く同じだ。パンフレットだけでの判断だが、どちらかというと、漢字をきれいに書くことを主眼としている筆ペン講座よりも、ひらがなを主体に学べるボールペン講座のほうが「自分の字を見てほれぼれする」という目的を達成するために有効である気もする。

 で、ここで話をややこしくするのが、実はプレゼントなのである。受講を決定した人のために、それぞれプレゼントがあるのだ。そういうものがあるとは不覚にも予測していなかったのだが、どうも、この手の講座では受講希望者の背中をもう一押しする要素としてこの「入学記念プレゼント」の存在がかなり重要だと考えられているらしい。重要性を示すように、それぞれのパンフレットに「プレゼント贈呈保証書」などというものがわざわざついて来ている。確かに間違いなくプレゼントは差し上げますよ、という保証書だ。うへえ。

 ひるんでいても始まらない。なんでも「筆ペン講座」のほうは、受講すると筆ペンセットがもらえるそうである。筆ペンというのは、当然ながら筆ペン字を練習するために必要な基本的道具であるので、嬉しいといえば嬉しいが、まあ、筆ペンだけに、べつにプレゼントされなくてもそのへんで買えるといえば買える。普通の習字講座で「筆と墨汁と硯」がもらえたり、絵の講座で「絵筆と絵の具」がもらえるのと違って、一ブロック先のコンビニでも売っているというところが、こう言ってはなんだが、ワクワクする感じがない。ではもう一方、ボールペン講座のほうは何か。

 腕時計。

 私はこれを見た時、心底がくっとした。ボールペン講座の受講プレゼントは、腕時計か。あああ、ええと、これはその、なんだ、ボールペンと関係ない。

 腕時計といえば、最近UFOキャッチャーでひとつとったことでもあり、しかもそれもほとんど使ってないことでもあり、本当に必要ないのである。これが電波時計だったり太陽電池だったり計算機や住所録がついていてインターネットに接続できたりすれば話は別だが、どちらかというと「ファッショナブル」近辺を目標に設計されている時計は、本当に必要ない。同じ千円くらいの品物でも、欲しいものリストの遥か奥底近くにある品物なのだ。私にとってだけでなく、他の多くの人にとってもそうではないかと思うがどうか。

 プレゼントを見る前に「どちらかといえばボールペン講座のほうが役立つかな」などと思ってしまったのも良くなかったのだと思う。私は今、本当に悩んでいる。筆ペンもそんなにものすごく欲しいとは思わないが、腕時計の存在は、ほとんどマイナスの価値にしかならないのだ。いらないから受講費をまけてくれるとか、他のなにかをもらえるなんてことはないのだろうから、ここはひとつあきらめて、むしろ何にももらえないほうがいい。と、読めば、例の「入学記念プレゼント贈呈保証書」にはこうある。「あなたが向こう20日以内に(中略)入学されますと(中略、腕時計を)無料贈呈されることを保証します」。ふうむ。

 そうだ、わざと二〇日以上経ってから申し込む手もあるぞ、と思うのである。どうも、モノがからむと考えることが不純でいけない。


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