レベルは三三

 私も当年とって三三歳。ロールプレイングゲーム風に言えばレベル三三であって、かなりの高位者である。というのは採用するルールによると思うが、主観的には素手でドラゴンでも倒せそうなレベルに感じる。もちろん現実世界では「鍛えればいくらでも強くなる」ということはないのでそんなことはないが、まあ、そこはそれ、垂直に強くならなくても薄く広く水平方向には強くなってゆくのである。つまり、歳を取るうちに得たスキルはいくつもある。大部分は「納豆でご飯を食べる」だの「衛星放送のアンテナを正しい方向に向ける」だのといった、どうでもよいものばかりだが、一つ、役に立つかもしれないものに「時間の進み方のマネジメント」というものがあると思う。

 こういうことだ。病院の待合室で診察を待っている。あるいは退屈な会議に出ている。二児の父には、子供を退屈させないであと一時間、なんとかごまかしつづけなければならない、というような場合もある。そういうときの身の処し方、時間のつぶしかたが、昔に比べてぐっとうまくなった。ハタチのころを思うと「退屈する」ということ自体ほとんどなくなった気がする。

 思うのだが、これは畢竟「自分が時間をどう感じるか」という、感じ方のコントロールの問題である。「あっという間の一日だった」「バスを待つ十分がやけに長い」というときの、いわば生物学的な時間の長短は、自分の内部の問題なので、コントロールできてもよい。時計や太陽の傾き、ある種の放射線の周波数によってカウントされる「物理的な時間」はどうにもならないが、自分がどう感じるかは、もしかしたらコントロール可能なのではないか。

 なにかをじっと待っているときには時間がなかなか過ぎてゆかず、忙しくしているとあっという間に過ぎ去ってしまう、ということはよく言われることである。たぶん、誰でも感じていることなのだろう。そう感じたからといって実際には何も変わらない。仲良ししていてもおなかは減るのだが、ここで、重要性の遠近法というものがあって、これは「地球の裏側の大災害よりも隣のボヤが重要」という効果のことだが、要するに、グローバルな時間の進みがどうあれ、それを感じるのは結局自分の精神活動、脳の中にあるなんらかの作用である。ここでコントロールできるなら、極端な話、絶対時間の進みはどうでもよい。

 ということで、少し考えてみよう。同じ一人の人間の中でもそうなのだから、違う人の間では、時間の感じ方がだいぶ異なるのではないか。私の一時間とあなたの一時間が違ったりする可能性はないだろうか。

 パソコンのクロック周波数に相当するものは、人間の場合は脳細胞の間の神経伝達スピードなのだろうから、まあ、特に速い人や遅い人がいるわけではないと思う。ただ、コンピューターにおけるそれと同様、プログラムの上手下手というものはあって、同じ問題にすばやく対処できる人と、そうではない人がいるのは確かである。とすると、実効的に前者の人のほうが時間の進みぐあいはゆっくりしているということになるのではないだろうか。同じ時間にたくさん問題を解けるということが、時間の密度に関連しているとしたら、面白い。

 ただ、これは「時間の流れ方をどう感じるか」ということとは、ちょっと違う。実感として、脳をぶんぶん使って問題を解いているときは、むしろ時間が速く流れてゆくのであって「時間が止まって見える」というわけではない。妙なことだが、ぼう、としているときのほうが、時間の流れは遅い。

 ではもう、どんどんぼうっとしよう。「ぼうっとする道」を極めて、もしも時間の進み方をどんどんゆっくりに感じることができたとすれば、どうか。同じ時間にたくさんの仕事ができる、というわけではないのが惜しいところだが、突き詰めると、理論的には無限の生物学的時間を生きることが可能になるかもしれない。なに、無限に生きられたら、仕事なんてしなくてもいいではないか。

 考えてみよう。最初の一年を使って「時間の流れを二倍に感じる修行」を成し遂げたとする。この人にとって次の物理的一年は、二年に感じる。なので、半年が「一年」である。そこで、その一年を使って「時間の流れを二倍に感じる修行」をする。すると、物理的に半年経ったところで、時間の流れは四分の一に感じるようになっている。次の三ヶ月が、その人にとっての「次の一年」である。このあいだに「時間の流れを二倍に感じる修行」をするのだ。これを続けると、究極的には無限に生きられる。二年を無限の時間に感じることができるのである。なんてことだ。

 いや、だからもちろん人間はそういうふうに垂直には強くなってゆかないのだが、ところで、私がどんどん時間のつぶし方がうまくなってきた、ということは、実はこれと反対の意味を持っているのではないか。時間が経つのが早くてしかたがない、ということなのだが、とすると、私の寿命は残っているようで、実はもうあまり残っていないのかもしれない。物理的な一年を主観的な半年に感じ、次の一年を三ヶ月に感じ……ということを続けると私の寿命はあと二年足らずしか残っていないことになるのだが。あ、いや、だから人間はそういうふうに垂直に強くはなってゆかないのである。これは幸いなことだ。


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