あたりまえのことをいう

 まだ幼い子供に、あまりテレビやらビデオやらを見せないほうがよい、という調査結果を新聞かなにかで読んだ。こういう報告は何度もされていて目新しいものではない気がするし、また調査の方法にいつもちょっとした疑問を感じてしまうのだが(※)、そんな孫引きで曖昧な疑いよりもなによりも、なにしろ説得力があって、さもあらんと納得しやすい結論である。どうにも「見せていると親が楽」という前提がまず引け目になっているので、なにか罰があたっても当然という感じがするのだ。もしテレビというものが、親が横で自転車を必死で漕ぎ続けないと映らないようなものだったとしたら、こんな結論は出てこないかもしれない。

 というテレビなのだが、実は私は駄目な親で、自分ものんべんだらりんと見ているし子供にも見せている。見せているだけではない。テレビコマーシャルの「健康系カテキン式」で、「そんなカラダを変えるのは」と歌うと、娘が小首をかしげて、
「むっかしーよねえ?」
と応えるのが可愛くてかわいくてつい何度もやってしまうのである。なにか邪悪な、やってはいけないことのような不安は感じるのだが、もう、どうしようもないテレビっ子なのである(私が)。

 さて、上の調査結果へのコメントでもわかるように、だいたい私は批判的な視点でもってテレビを見ている。と書くとやけに偉そうだが、別の言葉で言うと、いらんことばっかりぶつぶつ言いながらテレビを見ている。「すぐ飽きてしまう生活には、みんなもう飽きています」は同義反復じゃないかとか、「歯医者さんが考えた歯ブラシ」で歯を磨くと歯医者さんが儲かるようにできているのではないかとか、実例を挙げてゆくと、なるほど、どうしようもない。

 しかし、最近見たこのコマーシャルにはちょっと衝撃を受けた。
「○○のエステはカウンセリングから始まります」
これである。カウンセリングとは専門家に相談して助言をもらう、というほどの意味だから、思うに、街の散髪屋でも(「今日はどうしますか」程度かもしれないが)、まずカウンセリングから始まるのは同じではないだろうか。入ったらいきなり座らされて、まずざっと毛穴パックをされてしまう、というエステティックサロンは、まさかないと思う。

 いや、私にはあまり縁がない分野なので、なにか間違ったことを言っている可能性もある。エステの椅子に座って一言「オヤジ、今日は脂肪揉み出しマッサージを頼む」と言うと無愛想な頑固一徹エステ職人が黙って腕をまくってやおらマッサージをはじめるとか、そういう感じが普通なのかもしれない。が、そんな頓狂なイメージはどうでもよく、これは「当たり前のことをあえて言う」というテクニックなのではないかと思った。

 当たり前のことを言っているだけでは宣伝にならないじゃないか、とあなたは思うかもしれない。そうではないのだ。
「ラーメン『大西家』は、器がしっかり殺菌してあります」
 どうだろうか。こういうことを言うラーメン屋はあまりおいしそうではないが、それよりも、よそのラーメン屋のラーメン鉢から、にわかに不安な感じがただよってこないだろうか。自分の店の殺菌について述べているだけで、他店の衛生状態がどうであるかについては何も言ってないのだが、そのへんにじわっと疑問を抱かせるのである。これが当たり前のことをあえて言う。高等テクニックである。

 しかし、これは本当に高等なので、実地に応用しようと思うと、なかなか難しい。まず「当たり前」にはある種、程度問題がある。本当に当たり前のことを偉そうに書いてはしかたがない。
「ラーメン『大西家』のラーメンには、チャーシューが入っています」
駄目なのだ。チャーシューごとき気の利いたカップ麺にも入っているのであって、これでは宣伝にもなんにもならないのである。一方、あまり当たり前でないことを書いても、それはそれで違う。
「ラーメン『大西家』のラーメンには、海洋深層水が使われています」
ほほう、と思うかもしれないが、気がつけばこれは普通の宣伝である。海洋深層水自体が「当たり前のことをあえて言う」に近いアイテムだという気も少しするが、街のラーメン屋でこれをやるのはたいへんそうで、一定の宣伝にはなると思うが、それは我々の目指すところとは違うのである。では「水道水が使われています」と書けばいいのかというとそれも間違っているのだが、要するに聞き手があまり当たり前だと思っていなくて、でも本当は業界内では当たり前のことを書くのがよい。

 当たり前なのかそうでないのか、確かにさじ加減はむつかしいが、ここをうまく乗り切れば効果は高い。吉野家以外の牛丼にワインは入っていないのか、ボルボ以外の自動車メーカーは日に何台の車をテストで壊しているのか、我々は知らない。ラーメンだと「うちの麺には『かんすい』は使っていません」あたりがふさわしい地位にあって、かんすいが入っていないほうが偉いのか違うのか、世間のラーメン屋でどの程度かんすいが使われているのか、わからないが凄そうだ。つまり、商売をする上で当たり前のことでも、気後れせずに言ってみるのは大切なことである。同業他社の目が気になるけれども、うまく行けばよい宣伝になる。

 さて、この効果は、実は大人よりも子供に対して有効に働くかもしれない。一般に、大人よりも子供のほうが知識が少なく、「そんなの当たり前じゃないか」と思うレンジが狭いからである。特に幼児となると、こういう手練手管に慣れていないこともあって、親の主張が本当は当たり前のことなのか凄いことなのか、なかなか判別できない、はずである。

 というわけで、言ってみた。
「なあ、理科っち。こうしてテレビを見せてもらえるなんて、いい家に生まれたね」
娘は、お父さんすごい、と言ってくれるでなく、感動に目を見開くでなく、ただきょとんとしてこちらを見ているだけだった。子供のほうが騙されやすいといっても、こういうことを理解するには、いくらなんでも早すぎたのかもしれない。なるほどこれも程度問題だ。「当たり前のことを言う」技術は、むっかしいよねえ。


※たとえば、「テレビをよく見せる」→「発達が遅い」ではなくて、「子に無関心な親」という根本原因から「テレビをよく見せる」と「発達が遅い」の両方の結果が出ているだけではないか、という疑い。これがあるので、本当に「子供への無関心」ではなくて「テレビの悪影響」を測定したい場合は、調査においてテレビを見せる時間以外の条件をできるだけ同じにしなければならないし「テレビを見せていない時間なにをさせるか」もなおざりにはできない重要な問題である。が、対象が人間の子供なので、実際問題として研究は難しいと思う。
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