グッドウィルカウンティング

「5個のリンゴと3個のみかんがあります。あわせて何個でしょう」

 この問題に対して「8個」と答えてはいけない、とされている。5個のリンゴと3個のリンゴは足せる。しかし種類が違う数字は足せないのである。「この問題には答えがない」あるいは「5個のリンゴと3個のみかん」という実も蓋もない答えを返すべきなのだが、ではその理由はなにか、と聞かれて、ちょっと考え込んでしまったことがある。

 素朴には「8個の果物」と答えても、罰は当たらないような気がする。どうだろう、ここはお互いもういい大人なんだし細かいことに目くじらを立てるのはやめて、柔軟に対応するというのはどうか。2輪のひまわりと1輪のチューリップを足すと「3輪の花」である。2ダースの鉛筆と7箱の消しゴムを足すと答えは「9個口の文房具」であるし、4匹の猿と9個の野球ボールを足したら「13の剛体」である。コップ7杯の水と3つの雲を足す場合は、ええと、難しいが「10の凝集体」とかなんとか、そんな感じでひとつどないだ。

 わかった。すまん。限界である。どんなものでも足せるという立場は、上に示したように問題がだんだんややこしくなるし、「大西1人に細胞100個を足す」「宇宙定数と光の速度を足す」などという状況下ではもうどうしていいかわからなくなる。宇宙定数云々に至る前に、どこかで歯止めをかけないといけないのは確かだ。しかしその線引きが、言われているように「8個の果物」の前でないといけないわけは、ちょっと考えてみる価値がある、ように思える。

 では、反対方向にちょっと歩いてみて、こういう問題はどうだろう。
「白うさぎが2羽います。そこへ黒うさぎが6羽やってきました。うさぎは全部で何羽でしょう」
 これには悩む。「8羽」と答えていいものか。うさぎの場合は厳密には「品種が違う」→「だから区別すべき」という判断もあり得るわけだが、猫のように同一種でぶちやら三毛やらいる場合もあるので、じゃあ猫にしよう猫ならどうだと言われると返す言葉もない。「三毛猫とぶち猫は足せない」と考えるのが正しいのか、雌猫と雄猫はどうか。そういえば、男子と女子合わせてクラスに何人、というような計算は、算数の時間にしょっちゅうやっていたのではないだろうか。同じ人間だ、ということなら、同じ果物だ、との違いはなにか。大西科学は果物差別に反対する。マンゴーに自由を。

 と、以上のような詮無いことをいろいろ考えてみて、一応の結論にたどり着いたわけである。結局のところ、足し算というものは(そしてその他の算数すべてについても)、自然界にあるものをそのまま計算しているわけではない。この問題は、つまりそういう原理を教えるものだ。

 はじめに、リンゴ5個とリンゴ3個がある、というところで、既に問題は生じている。実はここ、5個、3個と呼んだ段階で、実物を数字に置き換えているのだが、そこに一定の了解があるのである。実際の、現実にあるリンゴには必ず多少のばらつきがある。重さが正確に同じではないだろうし、時には腐っていたり、虫がついていたり、はじが傷ついたり、一口齧られているかもしれない。計算以前の問題として、そこを「3個」と数えること自体、この個性を無視する行為である。

 しかし、あえて無視していい場合もある。スーパーに並んでいるようなリンゴはほぼ品質が一定していて、たとえば二人で分けるような場合、このリンゴとあのリンゴで価値として差がない場合は多い。であれば、同じリンゴが3個ある、と単純化して考えてもいいわけである。

 いや、むしろ、問題の出題意図としては、こういう簡単な足し算で話が済む、特殊な場合を想定していることになる。一個は少し痛んでいて、もう一個は小ぶりなうえ包丁で半分に切られてその半分だけが残っている、というような状況だと、なかなかこんな単純な計算では足したり2人で分けたりできない。これは算数なので、と言ってしまうと問題があるが、なにがしかの答えを出すためには、そういうことはない、との保証があると考えるべきなのである。

 この点をはっきりさせておくと、問題はずいぶん単純である。計算、狭い意味での「算数」としてやるべきことは「5個のリンゴと3個のリンゴを足す」ことではなくて「5と3という数字を足す」ということである。計算して、答えは8と出る。ここで、出た数字「8」を「8個のリンゴ」と解釈して、現実世界に戻す。リンゴの品質は、今の目的において一定である、という出題者から与えられた仮定があったので、その仮定の枠内では、同じリンゴが8個ある、という答えは正しい。どこかで仮定が崩れれば(リンゴが傷んだなど)答えは変わってくるが、それは計算者の責任ではない。

 以上の議論を踏まえて、リンゴとみかんに立ち返ろう。リンゴとみかんを足せるのは、要するに、足せる状況である場合だけである。たとえば仮に、リンゴ一個とみかん一個が同価値であると認める集団があったとして、その人たちに果物を分配するような場合であれば、リンゴとみかんは足せる。経済学的な判断以外にも、等量含まれるある栄養素を分配するとか、紙の上に置いて重しにするような用途だったら、足して構わないだろう。しかし、これはどちらかといえば普通の意味での「算数」の枠の外、栄養学とか経済学、政治の世界の判断である。算数の枠内で勝手にそのような仮定をしてよいものではない。リンゴとみかんの足し算は、そういう意味で、算数が答えを出すことはできない問題だ、というわけである。

 これは、理科(物理)で言うと、単純な物理法則が実際の落体の運動を記述しない、ということに似ている。高校一年生レベルの物理での運動方程式で記述される物体の運動は、摩擦がなかったり、重力加速度が一定でコリオリの力が働いていないなど、さまざまな仮定がある。数学ではなく物理なので「現実と合わないのは出題者のせい」とはちょっと言えないところがあるけれども、実際に法則を使ってホームランの推定飛距離を求めてやろうというような場合には、どういう仮定がそこに含まれているのか、計算にかけるまえに知っておく必要がある。

 ずっと思っているのだが、算数において、こうした「現実に算数を応用する」という教育は、意外にちゃんとしていない印象がある。私のあまり数多くはない家庭教師の経験からものを言うことになるが、算数を実地の問題に応用できない子供というのは、かなりの数、存在する。3と5を足すのは大事だが、算数のフチのところ、現実世界から数を持ってくる作業、それによって計算と現実との食い違いがたかだかどのくらいになるか、という見積もりだって、これが、けっこう大事である。

 少し、人口に膾炙した例を挙げよう。台形の面積の公式が何かの役に立つためには、上底と下底が平行であるという保証が必要だが、これは意外に厳しい条件である。日常生活で台形に出会う状況というと、土地を買う場合などがそうではないかと思うが、そうして出会う台形は、大抵すこしゆがんでいるか、そうでなければいっそ完璧な長方形で、あまり安心して台形の面積公式は使えない。平行であると出題者が仮定してくれる場合はいいけれども、実際の場面においては見守ってくれる出題者はいないのである。リンゴが全て等質であるという保護がないのと同様に。

 新しい算数の教育では、リンゴとみかんを足す計算が行われているだろうか。それこそ子供たちにとって、将来本当に大事な知恵だと思う。計算もできなきゃいけないけどね。


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