季節は春。この高校にも新入生がやってきて、最初の週のなかばである。本校舎の五階の西端、建物から半分はみ出したような位置にある生徒会室は、西向きに大きく設けられた窓から差し込む日差しがきつくて、そういう季節になると放課後は実にいたたまれない場所になる。しかし、まだ今のところは、開け放した窓から春の風がここちよい。眼下の校庭の桜は散りはてて、今は葉桜になっている。
「私の健康は一杯の青汁、か」
さまざまなファイル、小道具、丸めたポスターや古ぼけたパソコンが雑然と積まれた生徒会室。その中央に置かれたテーブルの周りに椅子を並べて、三人の生徒が座っている。独りごとを言ったのは、そのうち一人、テーブルの上に新聞を広げている男子生徒だ。新聞広告を口に出して読んでみたらしい。
「青汁か、じゃないよ」
隣の椅子から新聞広告を覗き込んで、そうこたえたのが生徒会役員の岩城直人である。会長、副会長二人、書記、会計の五人で構成されている生徒会役員のうち、副会長の役目を仰せつかっている。三年生になったばかりで、理系の進学クラスにいる直人は、今年は受験だ。それを聞いて、わはぁ、と短く喉の中で笑い声を上げた男子学生は植野俊平。生徒会役員唯一の二年生で、会計をしている。
目下、この生徒会室にはかれらのほかに女子生徒が一人いて、彼女、もう一人の副会長の三田美幸は、このやりとりに特に笑うでもなく、テーブルの反対側のパイプ椅子に座り、手元の文庫本に視線を落としている。そっちのほうをしばらく眺め、新聞のページをばさりとめくった植野のほうをもう一回見て、直人は、おれも何か読むもの持ってきたらよかったなあ、と思った。
かれら三人がこの放課後、わざわざ生徒会室に集まって詰めている理由は、新入生のガイドをするため、ということになっている。まだ学校に不慣れな新一年生諸君、何か不明なこと、不安なことがあったら、生徒会がサポートします、ぜひ生徒会室を訪問ください、というやつである。とはいえ、これがなかば形式的なものだというのもその通りで、現に生徒会長の槌浦と書記の飛立は、部活のほうでどうこう、という理由で欠席している。今日はまだ一人も新入生は来ておらず、生徒会室はけだるい雰囲気に包まれている。
いや、けだるいのはおれだけか、と直人は思った。ポケットからテーブルの上に関数電卓を出して、しばらくいじってはみたが、99999999がルートキー何回で「1」になるかという実験は、あんまり面白いものでもない。と、そこに、
「春の交通安全運動、か」
と、植野がまた独りごとを言ったので、直人は、新聞を見た。見出しが目に入る。
――幼児の交通事故に注意
ほう、と直人は思った。
「なあ植野、これ、どうだろうね」
話し掛けた直人に、植野が目を上げる。
「は、なにがですか」
「いやね、これ、意味あるかな。『未就学児の30パーセントは自宅から50メートル以内で事故にあっている』というやつ」
植野は面白そうな顔をする。直人は続けた。
「そもそも。『未就学児』というのは、要するに幼稚園児とか、保育園児ということだろ。そういう子って、あんまり遠くに遊びに出かけたりしないんじゃないかな。知らないけど」
「ああ、なるほど、それはそうですね」
「うん、でね。これに意味を持たせるには、未就学児の行動パターンを考えないといけないだろう。自宅周辺50メートル以内でどれだけ遊んでいるか、外にいるのはどれだけか。その上で、たとえば自宅周辺で90パーセントの時間を過ごしていた、ということだったら、やっぱり自宅の廻りは安全だ、ということになるよねえ」
直人は、一気にそう言った。別に交通安全に恨みはないが、とにかく暇なのである。
「わはぁ、そうですね。確かに」
となにやら植野も嬉しそうだ。かれも退屈なのだろう。
「それにさ、仮に未就学児の、自宅から50メートル以内の『存在確率』が30パーセント以下だったとしても、それはそれで困るよ。自宅から50メートルのところまで親が送っていって、あとは公園まで勝手にどうぞ、といはいかないんだから。つまり、要するに」
植野があとを続けた。
「科学をわかってない」
直人はくつくつ笑った。植野と直人はなぜかウマが合って、こういうやり取りを結構繰り返しているのだ。と、
がたん。
と、椅子の音がしたので二人はそちらを見た。ここまで黙って聞いていた三田がいきなり立ち上がっていた。
「理系っていうのは、どうしてそうなの」
直人はびっくりした。直人のほうをじっと見て、三田が、そう言ったのだ。
「なんでもかんでも単純化して、単純化しちゃいけないものまで単純化して」
「え、いや」
へどもどする直人に、三田はまくし立てた。
「いっつもそう。単純化できない現実は無視するか、そうじゃなかったら単純な結論に飛びつくの。『これは性に合わない』とか『そもそもこうなったのが悪い』とか。不満足な現実に耐えてやれることをする、ってことができないのっ」
「いやそんな、おれは」
直人は、なにか悪いことしたかななにか悪いことしたかな、と心の中で二度唱えた。三田は、直人のほうを見つめたまま、手の文庫本を机に置いた。軽くこつんと置いただけだが、直人は飛び上がりそうになった。
「未就学児の親が何を考えてるかって、わかってるじゃない。我が子は安全、家の周りは安全。それに対して『気をつけなきゃ』という気持ちを持たせられたらそれでいいの。統計を作った人もわかっててやってるのっ」
直人は、前半と後半の議論がかみ合っていないような気がしたが、混乱していたので何も言えなかった。きっと、いま読んでいた本に関係した何かなのだろう。直人は、かろうじてこう言った。
「三田さん、もしかして、親がこういう仕事してる…とか」
「ほらっ、また現実を単純化しようとしてるっ、理系のそういうとこが駄目だって言ってるのよっ」
三田にすぱっ、と言い返されて、直人は肩のあたりに細い剣先がすとん、と刺さったような衝撃を覚えた。そうか、おれはそうなのか。直人は、植野のほうを見てみた。面白そうにこっちを見ているだけで、何の役にも立たなかった。ところが、次の瞬間、直人はさらなる衝撃に見舞われた。そこで、三田が、にっこり笑ったのだ。
「なあんちゃって。うそよ。どうぞ」
直人が恥をかかずに済んだのは、植野が新聞をつかんでぱっと振り返ったからだ。直人も後ろを見る。開けっ放しになった生徒会室のドアの向こうに、女子生徒が二人立っていた。制服の真新しさからして、一年生らしい。
「どうぞー。さあさ、こっちに座ってください。わたしは生徒会副会長の三田美幸。美幸さん、って呼んでね」
直人と植野は慌てて席を譲った。入っていいのだ、と安心したのか、女子生徒たちが部屋に入ってくる。三田が、彼女らを手招きしながら、椅子に勢いよく腰をかけた。春の風をはらんで、制服のスカートが一瞬ふわりと広がって、落ち着いた。
直人はそれを見るともなしに見ながら、やっぱり三田の言う通り、複雑な現実は性にあわないのかもしれない、などと思っていた。少なくとも、三田美幸という複雑系を理解することは、いつまでたってもできそうにない。
「そうよねー。わたしもそう思う。ううん、それはね」
一年生たちと楽しそうに話し込んでいる三田をみて、直人は首を振った。いや、もしかしたら、彼女らは、ただこうして「ある」というだけのものなのかも。理解しようと思うこと、それそのものが、理系的発想というものかも、しれない。