打ち明けた話、人生をもう一度やりなおせたら、と思う方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。あの辛かった部活動やら朝練やら受験勉強などなどを思い出すと、人生まるごと全部をもう一回やりなおすのではしんどくてしかたがないかもしれませんが、何か重要な意思決定、タッチの差でうまく行かなかった気がする全国大会やら試験やら恋人の争奪やらを、もう一回どうにかやり直すことはできないものか、時間をそこまで巻き戻してもう一回繰り返したならば、今度はうまく行くかも知れないじゃないか。そういう考えは、不健康かもしれませんが、自然なことでもあると、私などはそう思います。
まったく、「巻き戻し」の空想は甘美であります。記憶、つまり教訓や苦労して身に付けた学問も技術もすべてそのままに、後知恵を持ったまま巻き戻し、というのが一等自分勝手な、それだけになおさら甘美な妄想でありますが、まあ、そこまで行かなくってもいい。仮に反省がまったくなく、単に同じことをもう一回繰り返すとして、それでも今度はうまくやれるに違いない、そういうことは確かにあります。「くじ運が悪かった」とか、そういうことであります。
あまり深く説明さしあげる時間も能力も私にはありませんのですが、量子力学のある種の解釈においては、こういう多数の世界が今も現に生まれている、と考えられております。基本的に反証不可能な、異論もある考え方だと思うのですけれども、世界は今もまた今も、どんどん枝分かれを続け、起こりえるあらゆる世界が実際に生まれ存在してゆきます。時間は一本の線ではなく、無数に枝分かれをした支流の多い川のような、あるいは毛細血管に分かれてゆく動脈のようなものになるのでしょう。
こういう説を採った場合、歴史が描かれた道は過去から未来に向かって無数に枝分かれしているので、ある程度戻って、もう一回進み始めることができたとしたら、ほぼ確実に違う道を辿らざるを得ない。そういうことだと思います。タイムトラベラーが見ていると、小石一つ蹴飛ばさないのに、織田信長が桶狭間で負けたり、日本海軍がミッドウェイで勝ったり、そんなことが起こるのではないでしょうか。
さて。ほとんど宗教論になってしまい、あまり科学的な主張ではなくなるのですけれども、私はこれに関してある感想を抱いております。世界を認識するものは、自分自身です。自分自身が、今、ある世界を見ているというとき、二つの要素が必要です。
世界がある。
自分がいる。
このどちらが欠けても「今」はありません。我々が人生をやりなおすというとき、普通そこで対比されるのは「幸福な自分」と「不幸な自分」ということになるのですが、本当はもっと、大多数の世界で「自分」はいないわけです。我々は、無数の世界から「自分がいる」という条件でふるいにかけた、わずかな世界の、そのうち一つだけを見ていることになります。
ですから、今自分がいて、夜空の月を見上げている、そのこと自体が、非常に幸せなことであると、そう思わなければなりません。枝分かれをした、無数の世界のうち、自分がいる世界はごくわずかなのです。これが幸運でなくて、なんでありましょうか。
しかし、そうではないのです。いや、話が違うとお思いでしょうが、私が今言わんとすることは、実はそうではありません。そうではない。先ほど挙げました、二つの要素をもう一回書いてみましょう。
世界がある。
自分がいる。
「世界がある」は、ほとんど前提条件であります。世界があって、自分がいない世界は、おそらくたくさんあるのでしょう。ランダムに世界を一つ持ってきて、自分がいるということは確かに素晴らしい幸運であるはずです。しかし一方、自分がいる、という条件を取り出してみると、そこに世界がある確率は、百パーセントであります。つまり、自分がいて、世界がない、ということはない。そうではありませんか。
何が言いたいかと申しますと、要するに「自分がいない世界」などというものは、少なくとも自分にとってはない、あってもなくてもわからない、ということです。少なくとも自分という観察者にとって、観察できる世界は、常に自分がいる世界なのです。無数の世界のうち、自分は自分がいる世界だけを選び取って見ているということになるのでしょう。大丈夫、自分がいない世界などというものを、自分が経験することは絶対にありません。
とすると、と、ここからが妄想になるのですが、もしかしたら、自分は不老不死なのかもしれません。信じられないほどの偶然が積み重なり、人類の中で、唯一自分だけが決して死なない世界を、これから私は体験することになるのかも。というのも、「自分のいない世界」というものを自分が経験することはあり得ず、かつ時間は前向きに進んで行き、かつ起こりうることはすべてどこかの歴史の分岐において起こっているとするならば、自分が死ぬ道理はないのです。「自分が死んだ世界」というものが自分の認識から取り除かれて行く以上、これはそうならざるを得ません。
いやいや、あまりに禅問答のようになりましたので、これは、ここで打ち切ることにいたしましょう。私の言っていることが正しいのかどうなのか、もう百年ほどすれば、わかることであります。はい。
さて、以下余談になりますが、実は、私にとって、巻き戻しの人生を妄想するときに、最近一つ、倫理的なと申しますか、どうしようもない壁ができたことを発見して、少々狼狽しております。
それは「子供の存在」です。考えても見ましょう。磐石な一本道の歴史を仮定すれば、巻き戻して、再生しても、会えるのは私の娘であり息子でしょう。妻と結婚する前まで巻き戻しても、何の問題もありません。しかし、そうではない。歴史はそのようなものではありません。枝分かれ云々が完全なヨタ話としても、量子力学とカオスがある限り、もう一度振り直したサイコロは同じ目は出ないのです。
そうすると、こういうことになるのではないでしょうか。一旦息子なり娘なりの、受精の瞬間よりも前に巻き戻したが最後、かれと彼女には二度と会うことができなくなると。少なくとも、非常にわずかな確率になってしまう、と。受精というのは、ほんの偶然で決まるイヴェントであります。同じ遺伝子を持った子供が生まれる確率は、少なくとも実用的な意味においては、ほとんどゼロになるに違いありません。
そう思うと、もはや巻き戻しは、できるとしてもやめておいたほうがよい、ということになるのかもしれません。この娘を、息子を、存在しなかったことにする、私には、そのような権利はないと思うのです。
もちろん、自分の受精前まで巻き戻せば自分自身についても同じことが言えるわけですが、まあ、自分にとって一旦存在した人びとにつきましては、自分にある種の責任ができたような気がするのは、まったく仮想的で無駄な倫理的な悩みだとは思うのですが、間違ってはいないような気もいたします。「自分の子供がこの子供でなかった世界」を考えることは「自分だけが不老不死の世界」とどちらが罪深いでしょう。いやいや、やめておきましょう、無駄な悩みであります。やめておきましょう。