二つ目の統計値

 自戒を込めて言うならば、そもそもツッコミはボケより簡単である。いや、うまいツッコミとうまいボケはどちらも同じように難しいと思うが、下手なツッコミと下手なボケでは下手なツッコミのほうがはるかに簡単なのである。従って、全体として、ツッコミのほうが簡単だ。

 そのことを私も昔はよくわかっていて、ツッコミすぎを自ら厳に戒めていた。ところが、ここ数年、我と我が身を顧みるに、いつの間にかボケをおろそかにし、安易なツッコミのみに邁進していたのではないだろうか。最近の私はいわば自動的に小言を生み出す小姑装置、森羅万象何にでもツッコミを入れるツッコミマシーンであって、テレビに新聞に読んでいる本に、運転している車から見える店の看板に他の車の挙動に「へんてこさ」を見つけては話題にしているのである。傍らにいてそれを聞かざるを得ない妻は相当辟易しているのではないかと思う。苦労をかけるのである。

 なんとかせねばならない。なんとかしようではないか。「ボケ保存の原則」というのは、今私が考えた言葉だが、世界にあるボケの数は有限であり、それに片端からツッコミを入れてゆくとしまいにはボケがなくなってしまう、という仮説をもとにしている。ツッコミは誰にでもできるが、うまいボケは、いわば限りのある資源である。一つツッコミを入れたら一つボケておく。うまいボケが浮かばないときはそもそもツッコミは入れぬ。そういう態度でもって世界のボケ量を維持してゆこう。そういう人間に、私はなりたい。

 さて、突如として統計の話をする。必然性もなく話が変わる上に実にありきたりの話なのだが、以下これが前提になるので切り替えてついてきて欲しいのである。そもそも統計とはなにか、と考えると、こういうことだと言えるかもしれない。

統計とは、多数のデータを整理して、いくつかの数字で代表して、全体を分かった気にする技術である。

 三回読んで次に進もう。たとえば、あるテストについて、クラス全体の成績がどんな感じであるかをつかむために、もっとも確実なのはクラスの全員の得点を、正直に逐一見てゆくことである。しかしそれではあまりに大変なので、得点を「統計処理」して、たとえば平均点というものを出す。平均点を見れば、あのクラスよりこのクラスのほうが成績が上である(少なくとも、このテストでは高得点を取った)ということがわかる。

 しかし、真実そうとは言えないかもしれない。たとえば、A組が平均五〇点、B組が平均四〇点だったとする。普通これはA組の先生のほうが教えるのがうまい、となると思う。ところが、実はA組は生徒の半分が百点、残りが哀れ〇点で、一方B組は生徒全員が四〇点だったとしたらどうだろう。なんだかとてつもなく極端な例を出して議論を誘導しているかのようだが、理論的にはこういう状況はありえる。どちらのクラスが望ましいかは価値観の問題になるので一概には言えないが、要するに、平均だけではなんともいえないことがある。貧富の差は平均収入からはわからないのである。

 さっき書いたように、統計とはたぶんそういうもの、細かいところに目をつぶって情報を整理するもので、だとするとある程度はしかたがないのだが、「平均」というたった一つの数値だけでなく、より高次の情報を添えることで、危険を減らしてゆくことはできる。

 たとえば「標準偏差」だ。これは、それぞれの生徒の得点が、平均からどれだけ離れているかを表したものである。数学的な詳細には立ち入らないが、得点をグラフ(分布図)にしたときに、山の中央の位置を「平均」、山の幅を「標準偏差」と考えるとだいたいよいイメージができるのではないか。標準偏差が少ないと平均のまわりに、きゅ、と集まったグラフになり、多いと、だら、と広がったグラフになる。さっきのA組の標準偏差は五〇になり、B組は〇になる。そういうわけである。標準偏差を使っても不十分な場合はあるだろうが、数字一つ(平均だけ)よりは、二つ(平均と標準偏差)を使ったほうが、より、もとの分布を正確に表現できるのは確かである。

 さて、以上を基礎知識として、一つ考えたことがある。個々人の能力についても、当然、平均値以外に標準偏差というものが考えられるのではないか。

 たとえば、学力テストで測定される能力(少なくとも、測定したいと思っている能力)は、ある意味で、その人の平均学力である。一回の試験でなにがわかるか、というのは当然の主張だが、普通、学力テストにはいろんな問題がまとめて出題されていて、その合計を得点とする。ある問題がたまたま解けなくても、実力があれば他の問題は解ける(ことが多い)のであり、合計としては、だいたいその人の実力の平均値を反映した得点が得られるはずである。もちろん、一次試験二次試験と何回か試験を繰り返せば、もっと正確になる。

 しかし、こういうものはすべて、平均値であり、標準偏差を測定してはいない。「たまたまヤマが当たって合格してしまった」という事態を防ぐために、普通は能力の平均値をより上手に測定できるように頑張って試験問題は作られるわけだが、そうするとなおさら、その人の能力の標準偏差はデータから失われる傾向にあるといえる。

 人間とは、そういうものではない。いや、これは統計的な主張ではないけれども、いかにもそんな感じはする。ある人は常に安定した実力を発揮できるが、別の人はもっと気まぐれで、ぽんと高い点数を取ったと思えば次は悲惨な得点に甘んじることがある。テストで測れるような学力だけではなく、運動能力でも、集中力でも、こういう「実力が安定しない人」はいるものである。

 バスや飛行機や電車の運転手のような職業は、標準偏差の少ない、常に能力が安定している人が望ましい。ときどきすごいタイムで目的地につく必要なんかないのであり、それよりは「気が付いたら崖から落下」ということがないようにすべきだ。だから、こういう人の選抜には、簡単な試験を何度も何度もやって、標準偏差が少ない人を選ぶべきだろう。

 しかし、スポーツ選手や歌手をはじめとして、研究職、営業職のような、「ときどきうまくいけばよい」というような職業は、確かにある。なんらかの意味でクリエイティブな仕事にはそういうところがあるが、いつもそこそこの仕事をする、何でもそつなくこなす、というよりは、一生に一回、ガーンとヒットを飛ばせば、あとはオールオッケーなのだ。こういう職業には「実力が安定しない人」のほうが向いている、気がする。

 何度も言うようだが、以上は証明を要する仮説に過ぎないけれども、真の問題は、普通、使われている能力評価が、たいてい平均値をうまく測定することを目的をするという、事実にある。野球でも、打率や防御率はその選手の平均能力を測定するもので「意外性の男」「ときどき人が変わったようにぴしりと押さえる」というようなイメージをうまく数字にはしてくれない。標準偏差を測定してこそ、その選手の真の実力を、よりよくイメージできるのではないだろうか。

 そこでボケツッコミだ。他人のボケにツッコみ、他人にやすやすとはツッコまれないようにする技術というのは、要するにいつも油断しない、標準偏差の小さい能力である。一方、ボケはどうかというと、心を広く持ち、ときにはあえて自分の中のなにかを緩める、だらっと広い標準偏差をよしとするものである。我々は、学校で揉まれ、社会で揉まれるうちに、自分の能力をいつも安定的に発揮することのみをよしとしてはいないだろうか。時々頑張るがいつもはボケっとして暮らす、そういうツッコまれやすい人間に私はなりたい。なお、この雑文もそういう意図でもって書いているので、有志のツッコミをよろしくお願いします。だらっ。


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