前から思っていたのだが、女性のアナウンサーのことを「女子アナ」というのは、なぜだろうか。「女性アナウンサー」でいいのではないか、「女子」と呼ぶのは馬鹿にしていやしないか、と思うのだが、本人たちが気にしていなければ、別にそれでいいことかもしれない。「女史」なのかもしれないし。
しかしながら、男性アナウンサーが、つまり「男子アナ」が、仲間のことを「女子アナ」と呼ぶのは、これが一種の蔑称だとしてだが、ある意味で正しいと思う。以前一度「妻のことを対外的になんと呼ぶか」というような話について書いたように、身内のことを尊んで呼ぶのは礼に反しているからである。他人に自分の妻なり息子なりのことを「愚妻」だの「豚児」だのと呼ぶように、対外的に同僚のことを蔑んで呼ぶのは失礼ではない。むしろ、尊称で呼ぶほうが間違いである。
その意味では、気になるのが「ヤクルトレディ」である。ヤクルトやジョアやヤクルトミルミルやその他Lカゼイ菌シロタ株製品を宅配する役目を負っている、まあそのいわゆる「ヤクルトおばさん」のことだ。これをヤクルトでは、どうやら「ヤクルトレディ」と呼ぶ。レディだ。そもそも、ヤクルトという会社にとって、ヤクルトレディは従業員であるはずである。いわば身内であって、身内のことを尊称で呼ぶのは、よくないことだ。
いや、これが間違っていると思うためには「レディは尊称である」というコンセンサスがなければいけないわけだが、ここのところはどうなのだろう。「貴様」がかつて尊称であったとか、「女房」が宮中の高官を示していたとか、そういうふうに、価値のインフレのあげく蔑称ないし普通になりさがる言葉はたくさんある。しかし、これ以上はあなたの言語感覚に訴えるしかないが、レディに関して言えば、これは今なお、ある程度の高級感をたたえた言葉ではないかと思うのである。違うかレディ。そうねコブラ。
だから、ヤクルトレディは、いけないと思う。社内でレディレディ言って持ち上げている分には勝手にやっていればよいではないかなのだが、対外的にあの職業のことを「ヤクルトレディがお届けします」等と言ってはいけないと思うのである。だいいちレディにおいでいただくのでは、落ち着かなくていけない。
いや待てしばし。それを言えば「生保レディ」というのがあるのではないか。生保レディとは、昼休みによく職場にやってきてテレビガイドやら飴ちゃんやらを置いて行くあの人であるが、実感として、ヤクルトレディよりももっとレディでない感じである。今、全国何百万もの生保レディを敵に回した気がしてドキドキしているが、「ヤクルトを配ってくれる人」と「なにかというと保険の契約を迫ってくる人」のどっちがよりレディらしくないかというと、難しいが、軽々しく言ってはいけないような気がするが、それはもう普段は誰も傷つけたくない私なのだが、保険のおばちゃんのほうだと思うのである。ああっ、ごめんねごめんね。殴らないで、刺さないでっ。保険金の受取り人書き換えないでっ。私には妻と二人の子供が。
と、馬鹿なことを書いていて今気が付いたが、そもそも「OL」が「オフィスレディ」だったのだった。そんなに難しく考える必要はないのかもしれない。私の印象「レディにはまだ少し尊称の気配が残っている」という感覚が間違いであって、標準的には単なる「女性」の言い換え、トイレに「女性」と書いてあるかわりにレディ、女性の暴走族のことをレディス、という程度の軽い気持ちであるのかも。そういえば「女子社員」という言い方もある。
しかし、ごほん。前のパラグラフがあまりに説得力があるので先が続けにくくなったところだが、しかしごほん、そうだとしても、忙しい毎日、ときどきは原点に戻って考えてみるのは大切なことであるので、以上の推論を書き残し読者諸氏の考察を待つのは決して無駄ではあるまい。「セールス紳士」がドアのチャイムを押したり「サービス殿下」にテレビの裏ふたを開けてもらうようになる前に、どこかでストップをかけておくべきではないかと、私は主張するのである。
ところで、学研の「科学」と「学習」は今も、学研のおばちゃんによって配達されたりするのであろうか。学研レディという言葉を聞かない以上、そうではないか、だとすれば学研は偉いなあと思うのであるが、単に販売形態の変化により「学研のおばちゃん」が消滅しただけなのかもしれない。まあ、あれから二〇年、学研のおばちゃんは既に全て学研のおばあちゃ(了)