世紀をこえて

 以前ここに「本に書いてあるクイズの難しさ」というようなことについて書いたことがある。面と向かって問題を出す場合はよいのだけれども、単行本や雑誌、放送などを通じて出題するときには、よくよく考えて、正しい答え以外の可能性を全部つぶした上で出題しないと、読んだ人の思わぬ不興を買うことがある、ということである。

 たとえばクイズの本を読んでいるとする。問題のページを読んで、わかったこうだ、と答えを思いつく。問題の条件を満たしていて、どうやら正解を導けたようである。そこで、確認するためにページをめくる。答えのページを読む。全く違う解答が載っている。自分の答えは不正解らしい。いや、確かに与えられた解答はもっともだけれども、自分が思いついた答えだって別に正解で不思議はない。この気持ちどうしたらいいのか。出題者出てこい。

 そういう一例ではないかと思う。こういう問題はどうだろう。いわく、「タイムマシンでソクラテスに会いに行き『こんにちは、僕は二〇世紀から来ました』と告げた。かれはどういう答えを返すだろうか」。ソクラテスではなかったかもしれないが、いずれそのあたりの誰かである。「二〇世紀から来た」というのも既に過去の話になりおおせてしまっていて驚くが、こういう問題を、どこかのクイズの本で読んだことがあるのである。

 出題者の意図するところとしては、正解は「二〇世紀とはなんだね」である。ソクラテスは紀元前の人だが、この「紀元前」というのは当然ながら紀元後になって決められたもので、当時の人間はそれを知らない。二〇世紀という暦年を告げても、相手は知るはずはないというわけである。

 目の付け所はいいと思うのだが、なんともグズグズの問題ではないだろうか。まず「ソクラテスに言葉がどうして通じるのか」とどうしても考えてしまう。「言葉が通じない」という解答である可能性だってあるだろうが、それではいくらなんでも小学生なので、ここは日本語ではなく、しかるべき言語に翻訳した上で「ワタシ、20セイキカラキマシタ」と伝えたと考えるべきだろう。ところが「世紀」はこの場合、いかに訳せばよいのか。

 他はいい。「僕」なり「来ました」なり「二〇」なりはソクラテスの語彙にあるだろう。「こんにちは」は微妙だけれども、それに相当する挨拶の言葉が翻訳先(ソクラテスの使っていた言葉)にないということはないと思う。しかし「世紀」は駄目だ。要するに、この問題はそこがミソなのだが、そのような言葉は翻訳先にないので、訳せない言葉なのである。なんとか当時の言葉を組み合わせたり、あるいは現代のギリシャ語などから輸入して訳語を作れることは作れると思うが、作った訳語が通じないというのは、火を見るより明かではないだろうか。ソクラテスに向かって話す前に、翻訳する段階で。

 じゃあどう出題すればよかったのか、賢い出題者が熟考すればこんなにグズグズにならずに済んだのかというと、これも難しい。相手はソクラテスではなく、「世紀」を知っていそうにない、しかし言葉が通じる相手でなければならない。聖徳太子や織田信長では、現代日本語は通じない気がする。古語に翻訳せねばならないのであれば、古代ギリシャ語と同根の問題が生じるのである。一方、言葉が通じそうな、大正昭和あたりの人では「世紀」を知っていそうである。「平成一六年から来ました」というのは成立すると思うが、いかにもあざといし、種を見破るのも容易だろう。

 こういう昔のクイズを思い出したのは、最近読んだ、ある小説の解説に「会話文の厄介さ」という話が載っていたからである。時代小説で、昔の人同士が会話している場面を描くのは厄介である、と書いてあった。リアリズムを追求するためには昔の言葉で書かねばならないが、それには当時の言葉に対する広汎で正確な知識が必要になり、学者でもない小説家には、とても正確に書けるものではない。だいたい、信長が尾張弁でしゃべり、家康が三河弁でしゃべる小説が正確かというと、本当のところはわからないのである。

 だから本当かなあ、と思いながらも「それがしは」「卒爾ながら」等々と書かねばならないわけだが、これがいっそ遠い過去や、外国(中国のような)の話であればずいぶん楽である。この場合、会話文は「(現代)日本語訳」ということになるので、普通に「私は」「失礼ですが」と書いて、そんなに違和感はないからだ。江戸時代のような、現代と地続きに感じるような時代だと、こうはいかない。

 しかし本当は、これでも厄介は厄介なのだろうと思う。小説家は、たとえば聖徳太子の話を書く場合に、会話文は翻訳であるということを強くは意識していないかもしれない。しかし、上の「世紀」の話ではないが、思わぬ「発明されていない概念」というものを、書いてしまうことがあるからである。

「世紀」のほか「蒸気機関」や「冥王星」「核反応」「リチウムイオン電池」というような、発明発見されていない物を指す言葉を登場させてはならないということは、さほど意識していなくても明かである。しかし、もうちょっと文系的な「部隊」「包囲」「制圧」のような軍事用語、「議会」「投票」「税金」といった政治用語になると少しややこしくなる。よく考えれば、時代によってはこれが出てくると相当雰囲気を壊す、と思わねばならない。「友情」「忠誠」「信仰」のような言葉になると、なくなったらどのように物語を書いていいのかと思うが、歴史上、どこかで発明された言葉には違いないのである。

 訳なのだから、現代語に翻訳したらたまたまそういう言葉になったのである、と主張することもできるだろう。しかし、その言葉発明以前には、そもそもそういう概念を表す言葉がなかった場合もある。「友情」発明以前には友情はなかったかというとあったろうが、言葉にできないと、なかなか「友情」について考えることは難しいのではないだろうか。そういう言葉を、古い物語に登場させるのは、源平合戦にいきなり鉄砲が出てくるのと同じ、ルール違反と言うことができるのではないか。科学技術による発明品に比べて、あまり明快ではないけれども「奉公という概念の発明」だって、時代考証の一部として重要なわけである。時代小説を書くのは、大変だろうなと思う。

 ただ、もちろん、小説は小説であって論文ではないので、誰も知らないような考証をしても得るところはない。大多数の人が読んでそれなりに納得できれば、楽しめればよいのである。しかも「詳しく調べたら間違っていました」というような微妙な間違いはどうでもよく、その場を(悪い言葉だれけども)だまして、楽しませられればそれでよいので、むしろクイズの本などよりはよほど楽かも知れない。何年も経ってから突然ウェブ上で「グズグズ」などという評価を受けるくらいなら、クイズ作家よりは、小説家のほうがずっといいなあと思うのである。


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