壮年期の終わり

 大学生になって、酒を飲むようになってこのかた、酒に飽くということが自分にあるとは思わなかったのだが、今、まさに自分がそういう気分になっていることに気が付いて驚いていた。もちろん、二日酔いの次の朝、というのならしかたがないが、今はそうではないのだ。ここは飲み会の席。まだ生ビールをジョッキに二杯ほどあけたところに過ぎない。頼んだ日本酒の甘さにうんざりして、刺身を食べて、それから、どうしようかと思いつつ、それなりに盛り上がっている周囲にあいまいな受け答えを続けている。

「いやしかし、イチローはすごかったね」
と隣で会話が始まったので、すこし、聞き耳を立てた。
「俺のいとこが、わざわざアメリカまで見に行った、ってたんだけどね」
「えっ、それは凄いじゃないですかぁ」
「いや、記録達成した日じゃなかったらしいけど。八五年間だかなんだかやぶられなかった記録なんだろ、すごいよね」
 先日達成された、大リーグの年間安打数の話題らしい。
「八五年前って、なに時代なんだろ」
「明治時代かなあ。いや、大正になるか」
「それだけ昔だと、もう違うスポーツなんでしょうね」
 私もそう口を挟む。
「そうだね、試合数なんかは一緒なんだろうか」
「違うでしょうねえ。たぶん、今の方が多いんじゃないかな」
「まあ、他の誰も破れない記録だったわけだから、凄いことは凄いんでしょう」

 私はそう発言してから、ふと思い出した。昔、生物学者のグールドが書いた本で、そんな話を読んだことがある。詳しくは覚えていないが、昔、それはもう昔、大リーグには年間を通じて四割の打率を達成する打者がいた。ところが、最近はもう長いことそのような天才的打者は現れていない。はたしてこれは大リーグの選手の質が落ちたからなのだろうか、と。

 違う、というのがグールドの結論だった。そうではなく、打率や安打数で飛び抜けた記録が生まれなくなるのは、むしろ、競技としての野球のレベルが向上し、選手の粒がそろってきたことを示している。グールドは統計的な分布でもってこの論を説明しているのだが、つまりはこういうことだ。オリンピックの百メートル走決勝では、一位から最下位までの差はせいぜい〇コンマ数秒というところである。一方、小学校のかけっこでは、一等とビリに、下手をすると二倍近い大きな差がつく。

 野球は、相手がある競技である。誰かに勝つ、その度合いが記録になるスポーツであると言ってもいい。徒競走では「タイム」という絶対評価があるが、野球においては、たとえば投手の球を、どれだけ打ち返せるかが一つの評価基準になるのであって、これはつまり相手との比較である。「隣よりもどれだけ短い時間で走れるか」を競うことに相当するだろう。とすれば、競技のレベルが上がり、誰も彼もが優れたアスリートになってしまえば、それほどすごい記録は出ない道理である。

 前置きが長くなったが、すると、と私は思ったのである。するとだ。イチローの大記録は、はたして手放しで喜べることなのだろうか。かつての大記録がついにやぶられることになったのは、本当にイチローが真の天才だからなのか。

 もちろん、そうなのだろう。現実、イチローの他に誰も達成できなかったのだから、イチローが最高に優れたプレイヤーであることに間違いはない。急に二百本安打を打つバッターがごろごろ出てきたわけではないのだ。しかし、大リーグでここ数年の間に、やはり長期間破られなかった年間ホームラン数記録が更新されていることは、合わせて考えてみるべきかもしれない。どうなのだろう。もしかしてだが、記録の更新は、大リーグのレベルが全体に落ちてきていることの、一つの指標なのではないか。大リーグという組織全体が、ピークを過ぎ、衰えはじめて「どんな天才でも決して他を圧倒できない粒のそろった天才の集団」ではなくなっているということに過ぎないのではないか。

 私はそこまで考えて、周囲に、そのことを説明しようとして、考えて、酒を一口飲んで、やっぱりやめた。酒の席でするにはあまりに込み入った話に思えたし、酒がまずくなるような傾向の話だし、なにより他にも原因(たとえば「打高投低」へのストライクゾーンなどルールの改正があったのではないかとか、年間試合数の増減とか)があるに決まっていて、そこまで網羅した理論にはできそうにない、と、自分で考えて、自分で観念してしまったからである。えい、この酒おいしくないなあ。

 結局、私は、
「なにか『大リーグのセキュリティホール』みたいなものを知っていて、イチローはそれを突いたのかもしれませんね」
「なるほど、パッチを当てられないように祈るばかりだなあ」
などと適当なことを言ってお茶を、というよりこの場合はお酒を、濁すことになった。

 それで、その場の話題は他に移ったのだが、私はもう少し考えた。大リーグはわからないが、日本の野球界はどうなのだろう。野球人気の退潮ということが言われて、しばらく経つ。確かに、村で一番運動神経の優れた子供が野球選手になる、という時代ではないのだろう。とすれば、やはり同じような「大記録が生まれやすい状況」というものは、出てくるのではないだろうか。ただ、優れた数人の選手が毎年のように大リーグに移籍してしまうという現状は、それに拍車をかけるだろうか。あるいはその逆だろうか。

 と、見上げた、居酒屋の天井から釣ってあるテレビで、夜のニュースをやっていて、そこに「阪神タイガース井川投手、ノーヒットノーラン達成」の見出しが映っていた。なにか、見てはいけないものを見たような気がして、私は飲み残しの一合酒をぐっとあおった。悪い酒になりそうだった。


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