無限への降下

 昔「三時のあなた」というテレビ番組があった。子供だったので内容はほとんど覚えていないのだが、テーマ曲だけはどうにも耳に残っている。確かこういう歌詞だった。
「三時のあなた 三時のあなた 三時のあなた あなたの三時」
意味がよく分かるような、分からないような、なにか、必要条件と十分条件ということを思い出させる歌である。

「十分条件」とか「必要条件」というのは、数学の術語である。全てのカラスは黒いが、黒くてもカラスとは限らない、ということを前提とすると、このときの「カラス」を「黒い」の十分条件、「黒い」を「カラス」の必要条件とよぶ。記号「⇒」を使って「カラス⇒黒い」と式に表すこともできる。

 私はこの必要条件と十分条件が苦手である。いったん式に作ってしまってから、数学的概念として捉えるなら理解に支障はないのだが、問題はもとの形、日本語の文章の中に出てきたような場合だ。人によって感想は異なると思うが、私に関して言えば、文章の中に登場する「必要条件」なり「十分条件」は、いつも、意味をとらえることが難しくて、悩ましい。たとえばこういう会話文はどうだろう。
「一晩考えました。あなたは結婚相手として、必要条件は満たしていると思います」
なんとなく、意味はわかるように思う。ところが、続いてこう言われるとする。
「でも、十分条件は満たしていないのです」
 なんだかわからなくなって、矢印を書いたりベン図を書いたりしなければならなくなるのである。そんなことをしていてはますます結婚できなさそうに見える。しかし思うのだが、これは言葉の純粋な意味で「日本語」ではもはやなく、一部数学記号が文章に出てきたようなものではないか。ちょうど、こういう文章のようなものである。
「私は『モンブラン=栗』だと思うけど、あなたは『モンブラン<栗』だと言うんだね」
 これは日本語とは言えないと思う。

 何を言っているかわからないと思うので、もう少し例を挙げよう。たとえば、黒板に「反対」と書く。賛成反対の反対であるが、次に、これに付け加えて「の反対」と書く。都合、
「反対の反対」
となる。これは、いちおう日本語として意味が通る。しかし、さらに付け加えて、
「反対の反対の反対」
とこれはどうか。文法上こう書けない理由はないが、なんだか怪しい。天才バカボンな感じがしてくる。さらにその先を書いてみると、
「反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対の反対」
 どうだろう。虚心に言って、もはや、意味をなさない、と言ってしまっていいのではないか。「反対」の数をいちにさんと数えて、ああ、要するに「賛成」なのか、というふうに計算はできるのだが、それは言葉を数学的に捉えた理解のしかたであって、言葉として意味をつかめたわけではないと思うのだ。

 数学の世界ではこういうことは許される。断然許される。たとえば、1−1、と黒板に書く。ここまでは普通である。その後に、
「1−1+1」
と「+1」を付け加える。さらに、
「1−1+1−1+1−1」
と書く。調子に乗って、どんどん書く。コピーアンドペーストする。
「1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−1+1−…」
 やっていることはすっかりナンセンスとはいえ、数学的には無意味な式ではない。規則上、許されているし、それなりの意味もある。数学というのは、あらためて言うほどのことではない気もするが、結構非人間的なのである。二重積分の外側からもう一回積分した式がなにやら美しかったり、無限級数や数学的帰納法がちょっと痛快だったりするのは、この非人間的なところが面白いのかも知れない。

 以上の例においては、数学のほうが一般の言語よりもやや守備範囲が広いという話だが、もちろんこれは数学万能という意味ではない。当たり前のことをトクトクと書くようだが、通常、数学的な演算を言葉に対して行ってよいわけではなく、たとえば二重否定「なくはない」を「ある」に直してはいけないのだ(「ちょっとはある」という意味だから)。さらに、次のようなのは、言語感覚はもちろん、数学的センスをもってしてもお手上げではないだろうか。
「かまわなくはない」
 許す許さないという意味での「かまう」という言葉はなくて「かまわない」が出発点なので、これは単なる否定文ということになると思うのだが、どうも、やっていいのか悪いのか、悪いとしてもその禁止は強いのか弱いのか、判断に困るのである。言葉としてもわからないが、数学を用いても到達できない領域というものが、あるのだろう、たぶん。

 ところで、先だって、こういう張り紙を見た。
「物を大切に思う気持ちを大事にしましょう」
言いたいことはわかるが、どうかすればこのまま、無限の淵に落ち込みそうな、不安な感じが漂ってくるのである。数学的帰納法まで、ほんのあと一歩を残さなくはないのではないだろうか。


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