ナルシス・ザ・ムーンフェイス

 地球の衛星軌道を周回している人工衛星、たとえばスペースシャトルの内部を思い浮かべる。宇宙飛行士の体やボールペン、食べかけの宇宙食なんかが室内をふわふわと浮かんでいるアレ、アレのことを「無重力状態」と呼んでは正確でない、という主張がある。

 というのも、これは「重力がない」のではなく、実際には地球の重力は存在しているからである。地球の質量が宇宙飛行士の体などを引き付ける引力は、地球の重心からの距離の二乗に反比例して弱くなってゆくのだが、特に高さ数百キロメートル程度の低い人工衛星軌道においては、ほとんど地上と変わらない強さで残っている(地球の赤道半径、六四〇〇キロと比較して「数百キロ」が小さいから)。もっと高い軌道でも消え去るわけではなく、考えてみれば「地球の衛星軌道」なのだからいくらか残るのは当たり前である。ただ、人工衛星内では地球の重力が、軌道運動の遠心力とちょうど釣り合っているので、中の人間は重力を感じない。

 つまり、重力はある。ただ、感じないだけだ。だから「無重力」ではなく「自由落下」とか「無重量」、または厳密さを追求して「微小重量」等と呼ぶべきである(衛星の重心以外で残る潮汐力等を鑑みて)というわけである。

 ただ、以上の主張はもっともとして、「無重力状態」と言った場合、この言葉における「状態」を、「〜に類似の状況」という意味に取れば、さほどひどく間違ってはいないとも言える。もつれたレースを「ダンゴ状態」と言ったり、部屋中探し回ったマフラーを実は肩からかけていたとき「わしのメガネメガネ状態」と表現するときの「状態」である。本当にダンゴだったり、メガネであるわけではなく、どちらも表面的な特徴が似かよっているだけである。これを踏まえて「無重力状態」という言葉をもう一度眺めると、これは「まるで重力がかかっていないみたいな感じ」という意味になるわけで、その意味において人工衛星内を「無重力状態」と呼ぶのは正しい。「状態」をつけている限り、怖いものはない。

 というわけで、以上を予防線として書いておけば私が今後無責任に「無重力」と書いても「わかってて書いている」と思ってもらえるに違いない。と、2005年はこのようにこずるく生きて行こうと思っているのだが、さて、無重力下で人間に起きる現象の一つに「ムーンフェイス」というものがある。宇宙飛行士ならぬ身、私がこの言葉を聞いたのは小説だの漫画だのを通じてなので、本当に現場においてそういう言葉が使われているのか怪しいところもあるけれども、少なくとも私の認識するところでは、これは「無重力下の美容と健康」という類の話である。無重力状態では、血液が頭のほうに集まり、顔がむくんだような状態になるそうである。顔が月のようにまん丸に見える、という。

 もちろんこれは字義どおり丸いのではなく「まん丸状態」ということだと思うけれども、そうして顔が膨れると美しくなるのかそうではないのか、これは必ずしも一概に決められる事ではない。けれども、普段我々が鏡で見、また写真やビデオで見る自分の顔と、軌道上での顔が「違う」ということだけは確かで、それがどんなものか、地上に縛り付けられた我々地上人にはなかなか窺い知ることはできない。

 と言いたいところだが、そうでもないのかもしれない。要するに、寝起きの顔ということではないのだろうか。考えてみると、いくら軌道上では血がのぼるといっても、1Gで引かれていたものがゼロになるだけであり、それならば寝ている状態とさほど違わないと思う。地上でしばらく逆立ちで過ごせば、軌道上よりももっと凄い「ムーンフェイス状態」を体験できるはずなのだ。しかし、ここからが門外漢の悲しさ、本当のムーンフェイスとは違うと言われると、そうかもしれないとも思ってしまう。

 等々と疑問を残しつつ、ここでまた話が変わる。私のオフィスの、机の引出しに、鏡が一枚入っている。本当は鏡ではなくて、平らなガラスの片側に薄く金属の膜が塗ってあるものなのだが、鏡として使うことができるのでそうしている(というより、鏡というものがそもそもそういうものだ)。取っ手もなにもついていないから、顔に何か付いてないか気になったときは、引出しを開け、薄い引出しの底に、こちらを上にして置いてある鏡を覗き込む。便利に使っているのだが、最近、あることに気が付いた。つまり、こうして見る顔が、いつもの顔とは違うのである。普通の鏡で見た状態よりも、頬がでっぱって目が落ち窪み、彫りの深い顔に見える。

 なるほど、考えれば道理、これは重力のせいなのである。鏡を覗き込むとき、私の顔の皮膚にかかる重力は、皮膚を顔から引き離す方向に働いているけれども、これはいつも見ている、トイレやなにかにある鏡を覗いたときとは異なる。それでこんなに顔が変わるとはちょっと思わなかったが、実際に、自分で見た目では、かなり印象が異なって見えるのだった。ちょっと覗き込んだだけでこれだと、本番の無重力状態、「ムーンフェイス状態」のときどうなるのか、おそらくひどく印象が変わるのではないか。

 しかし、このように簡単に顔の印象が変わる、ということになると、「私の本当の顔」としては、どういうふうに考えるべきなのだろう。私個人としては、地上にいて、布団から起きて何時間も経ったあと、写真に写ったり、鏡で見たりする顔を自分の顔だと思っているけれども、たとえば下を向いて、子供の顔を覗き込んだ顔はもう、この「引き出し鏡の顔」なのである。

 さあ、それで次に思い出すのはナルシス(ナルキッソス)のことだ。彼はギリシャ神話の登場人物で、ハンサムな青年だったとされる。彼は水面に映る自分の姿に恋をして、自分の顔ばかり見ていた。あれこれあって、彼は水仙の花になって、今でも水面を見つめている。これがナルシシズムの語源である。めでたしめでたし。

 めでたしめでたしではなく、現実にはそんな妙な話はないが、まあその神話なので、ええと、考えてみると、そこでナルシスが水面に見たのは私の「引出し鏡の顔」と同じ顔であるはずである。どのくらい昔の話か、神話なのでわからないが、日本の神話にだって鏡くらい出てくるので、どこかにはあったような気もする。ではなぜ水面なのか。昔になるほど鏡が高価で貴重になってゆくのは間違いないから、単にナルシスには手に入らなかっただけのことか。次のような説を考えてみた。

・ナルシスは鏡なんかない時代(かつ/または)地方の人間だった。水鏡しか知らなかったので、そうしていた。自分の顔は水に映したものしか知らない。
・ナルシスは鏡などで見た顔と、水面に映して見た顔が違うのは知っていた。どちらかというと鏡があれば泉の近くにいる必要もなくて便利だなあと思っていたが、鏡はなかなか手に入らないので、我慢して水面を見ていた。
・ナルシスは水面に映った自分の顔が、鏡よりもむしろ好きだった。水面を覗き込んだ状態で完璧になる類の顔だった(だから、他人が普通に立っているナルシスを見てもあまり美しいとは思わないかもしれない)。

 それぞれもっともらしい、と思っていたのだが、第四の可能性があると気が付いたのは昨日のことである。自宅で、おもちゃの手鏡を床に置いたところを、たまたま1歳の息子と一緒に覗き込んだのだ。見てみるといつもの「引き出し鏡の顔」で、私はまたこのナルシスのことを思い出した。ところが、同じようにうつむいている息子が。息子の顔が。

 これが、まったく変化していないのである。いつも見ている彼の顔と同じに見える。ああ、皆様方、若いっていうのは素晴らしいことですよ。息子は最近乳児から幼児になったばかりで、そりゃもうほっぺたなんかもうぱっつんぱっつんなので、重力の影響なぞ受けないのである。どっちを向いても顔の印象が変わらないのである。

 というわけである。ナルシスの神話は、いくつかの真実を私に教えてくれたのかもしれない。つまり、若いと水鏡に映しても顔は変わらない。ムーンフェイスにだってならないのかもしれない。別の言葉で言えば、ナルシスは若く、そして私はもう年寄りである。どうもそういうことのようであった。まだ若いつもりだったけどなあ。


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