電波の時計

「もしかしてこれって……つまんないんじゃないの?……」――クマのプー太郎

 どちらかといえば、背景となった科学や科学技術そのものではなく、「科学技術がなしとげた驚異」のほうに心引かれるのは誰もが同じである。人は手品の種を知ることを好むけれども、うまく演出された手品そのものに、より大きな興味を引かれる。料理のレシピよりも料理そのものを味わいたいと思う。どんな恋愛小説よりも自分自身の体験する恋愛こそが(たとえそれが小説に比べればやや退屈なものだとしても)、我々をして熱中させるのである。

 というわけで、あなたもそうだと思うが私は新奇な技術を使った道具が大好きで、事情が許せば全部一回ずつ買って試したいと思っている人間である。しかし、そうしたいわば「技術オタク」としては徹底的な落ちこぼれの一人でもあって、株か何かでいっぱつ当てたら買うのに、というものばかり多く、現実には子供の将来のために貯金をしたり家のローンをちまちま返済しているダメ男なのである。

 いやダメではないような気もするが、欲しかったものを思い返すと寂しくなるのは確かだ。こころみに列挙すると、電動アシスト自転車、カーナビゲーションシステム(あるいはGPS)、家庭用太陽電池パネル、セグウェイ、ドラム式洗濯乾燥機、生ゴミ処理機、iPod、テレビ電話、AIBO、ハイブリッドカー、第三世代の携帯電話、ダイソンの掃除機、ハードディスクビデオレコーダー。どれひとつとっても、家庭を抱えて収入だってありあまってはいない今の私には荷が重い出費なのであった。これを落ちこぼれと言わずしてなんと言うか。

 しかし、小さな買い物をちょくちょくしてはいて、このたび「電波ソーラー腕時計」というものを買った。あ、今、こういう単語についていちいち説明したくなる自分の性質を呪いたい気分になったが、これは腕時計で、福島の「おおたかどや山」たらいう山から発信されている時報を取得して自動的に時間を修正する機能を持っているものである(西日本にも別の標準電波送信所がある)。文字盤が太陽電池になっていて、明るいところでは充電するようにできているので、電池の入れ替えも不要だ。

 こんなものはべつに今年や去年の新製品ではなく、ずっと以前からあるものだが、適当なものが、私に手が届く価格帯までやっとおりてきた、というのが真相である。なんだか非常にさびしいことを書いているが、ダメ男だからしてしかたがないのである。

 電波時計でも、掛け時計になっているものは、二年ほど前から使っていて、これが非常に便利であることがわかっている。家に一つでも、これは完全に合っている、という時計があるというのは、非常に頼もしい。時計を見て、遅れているんだっけな、進んでいるんだっけな、などと考える必要がないし、合っているというのはもう秒の単位で合っているということなので、秒針を見ていると「あと15秒で『いないいないばあ』がはじまるな」というようなことがわかるのである。嬉しい。

 ところが、腕時計をしばらく使ってみると、そこまでのことはないのではないか、と思うようになった。説明しよう。まず、この腕時計は(掛け時計もそういえばそうだが)、毎晩、夜中の1時から4時の間に自動的に電波を受信して、時刻を合わせることになっている。いちおう断っておくなら、この「毎晩」というのが、そこまで必要ではないように思えるのは確かである。普段の時間はクォーツによって刻まれていて、毎晩ずれを修正しないと目立ってずれてゆく、というほどの誤差はない。時刻合わせは数日に一回とか一週間に一回程度でも実用上どうということはないのである。しかし、設計上は別の思想があるらしく、毎晩必ず自動的に時刻合わせを行うことになっている。心配性なのかもしれない。

 さて、問題はこれからである。この時刻合わせが、めったに成功しないのだ。掛け時計はちゃんと毎日自動修正しているようだが、腕時計はうまくいかない。おそらく、腕時計なので受信条件が厳しい(アンテナが小さいので?)ほか、置いている場所がよくないのだろう。窓際にでも場所を移せば解決しそうなのだが、うちの場合「子供に触られない」と「取り出しやすい」が両立する場所は、めったにないのである。

 気にしなければよい。その通りである。何日もほったらかしにしても、そうそうずれるものでもあるまい。ところが、気になるのだ。時計のある部分に「最後の時間合わせは成功しました」という印に、パラボラアンテナのマークが出ることになっているのだが、使っていて、このマークが出ていないと、妙に気になるのである。なにか底知れぬ不安を感じるのである。

 そこで、会社で、朝、席に着いたらかならず「手動時刻合わせ」のボタンを押すのが、最近は日課のようになっている。幸い、会社の私の机の上は、受信状態がよいらしい。これでよい。考えてみるとありがたいことだがこれはタダなので(ソーラーなので電池さえ減らない)、気兼ねはいらない。もう、毎日押す。どんどん押す。

 しかし、よく思うのだが、これは「非常にまめな人の時計」とどう違うのだろう。毎日朝時報に合わせてくる人の時計なら、私の小賢しい時計と同じだけの精度があるのではないか。いや、違うといえば、確かに違う。時報にはタイミングというものがあるが、私の時計合わせはいつでも好きなときにできる(時刻合わせに使う標準電波がどういうものか、実は良く知らないのだが、少なくとも数分に一回は出しているもののようだ)。手間もいらない。しかし、それでも毎日こうやってボタンを押していると、たいして省けた手間もないような気がしてくるのだ。

 冒頭の「クマのプー太郎」のせりふは、中川いさみの四コマ漫画のものだ。この中でプー太郎(主人公)は、道ばたでサボテンを売りつけられる。店の親父はこう言うのである。
「これ以上大きくはならないよ」
「水やる必要も無いんだ」
「よし買った」
 私の時計はどうやら一日に一回はボタンをおしてやらねばダメなようだが(いや、ダメではないが)、これで自動で時刻が合うようなことがあれば、これはまさに「サボテン」だった。これをめでたいことと考えるべきかどうか、私は四コマ目のプー太郎と一緒に、首をひねっているのである。


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