「花冷え」というのか、四月に入ってしばらく肌寒い日が続いているが、窓を閉め切った三年四組の教室の中は、西日が差し込んで暖かだった。三年生に進級していよいよ大勝負、勉強に明け暮れるべき一年が訪れたことになっているとはいえ、そのようなことを急に言われても実感として大学受験はまだまだ先のことに思われてならず、放課後の教室で、岩城直人は友人らとともになんとなくの時間をつぶしていた。
ここは、直人のクラスではない。三年に進級するときにクラス替えがあって、直人は「理系進学クラス」などという恐ろしい二つ名を持つ三年五組に入ることになったからだ。偶然かはたまた必然か、長い間同じクラスにいた仲のいい友人は、ほとんどこちらの、三年四組に進級している(特に進学とか理系とかそういう冠はない)。同じ時間をつぶすにしても、本来は五組で新しい仲間達と親交を深めるべきだ、とは思うのだが、こちらも「なんとなく」という理由にならない理由でもって、直人は今ここにいる。
「そういや、あれどうなった西村。『三年四組クラス歌』」
とりとめもない無駄話の中で、直人の友人の一人、仙石良成がそう言った。尋ねた相手は西村聡美。やはり去年直人や仙石のクラスメイトだった女生徒である。西村はこくり、とうなづいて、
「えっとね、だいたいできたよ」
と、鞄を開けてなにかを取り出そうとしている。
「え、何の話」
と直人は口を挟んだ。
「ああ、そうそう」
説明する仙石に、お前は知らないんだな、という目で見られて直人は少し傷つく。
「四組で『クラス歌』というのを、作ることになったんだよ」
「へえ。作曲を」
「ほら、西村はピアノやってたからね」
「そりゃあ、すごいなあ」
直人はただただ感心する。直人にとって作曲は「鉄棒の大車輪」と同様、どうすればできるようになるのかさえわからない類の技術である。ピアノを長く習っていると、できるようになるのだろうか。本当だろうか。
「これ」
と、恥ずかしそうに西村が見せたのは、五線譜だった。シャープペンシルの手書きで丁寧に音符が書き込まれている。
「お、見せて」
仙石が手を伸ばす。直人も横から覗き込んだ。
「ほうほう、なるほど、こりゃ名曲だ」
「そうなのか」
「いや」
と仙石は直人の目をじっと見て、首を振る。
「嘘だごめん。読めない」
押し問答があり、結局西村が小さな声で(本当に小さな声で)歌ってみる、ということになった。直人の知らない四組メンバーが書いたという歌詞はあまり感心しなかったが、曲のほうは、直人にはなかなかの名曲に思えた。これをあとでホームルームで披露して、クラス歌として採用されれば、学級対抗の合唱コンクールやら、学祭やら修学旅行やら、もしかしたら卒業式なんかで歌うことになるらしい。いいことだね、五組はそういうところがいかんよ、と直人はまとめて、その場はまた別のとりとめもない話に移っていった。
直人は、部活動としては「化学部」という幽霊部の部員として非熱心な活動を行っているわけだが、諸事情から生徒会の役員などということにもなっていて、しばらくはそっちのほうが忙しくなった。だから、直人がその「三年四組クラス歌」のことを思い出したのは、数週間後、四組の前の廊下を通りかかったときのことだった。放課後の教室の中から、オルガンの音が聞こえる。なんというべきか、なにやら、非常に調子っぱずれである。それも、弾き間違えているというのではなく、どことなく「音痴」的な、ひずんだ感じがする。
直人は四組のドアを引き開けた。中には仙石たちがいて、教卓の横に置かれた小さなオルガンの周りにたむろしている。オルガンを弾いているのは西村だ。二人が直人のほうを見る。
「やあ、今聞こえたんだけど。そのオルガン」
「ああ、音楽室から借りてきたんだ」
と仙石が言う。
「いやそうじゃなくて。それクラス歌だろ。そんな歌だっけ」
「ああ」
仙石はちょっと天を仰ぐまねをする。西村が悲しそうに言った。
「移調したの」
直人は、音楽などちっともできない人間だが、音楽の、理論的なところは比較的よく知っているつもりでいる。これは中学の音楽の時間、歌の練習もせずに教科書の端のほうばっかり熱心に読んでいたからだが、つまりこういうことである。ドレミファソラシドの音階は、実は「等間隔」ではない。音同士の間隔をだいたい等間隔にしようと思うと、間に半音を入れて、
としなければならない。ピアノの黒鍵の配置を見れば明らかなのだが、この半音はすべてのところに入るのではなくて、ミとファ、シとドの間には半音はない。というより、
の十二音をもってきてはじめて、半音ずつ滑らかに上がる「等間隔」な音階になるのである(「嬰」は半音上、「変」は半音下、ということ。嬰ハと変ニは大まかには同じ音)。むしろ、十二の音が等間隔に並んでいて、このうち特定のもの、135681012番を取り出して「ドレミファソラシ」と呼んでいると考えてもよい。
どうでもいいことだが5がもし4なら、これは東京のテレビのチャンネルと同じ配列だ。さらに余談だがこの列は小の月大の月、ニシムクサムライにも半分ずれて重なる(ヘを1月と思って数えてみるとわかる)。
だから、ドレミの音階は実際には相対的なものである。絶対的な「ハニホヘトイロハ」(あるいは「CDEFGABC」)という音名の上を自由に選ぶことができる。たとえば、作った歌がちょっと高すぎたときに、メロディの「ド」を「ハ」ではなくて、半音二つ下の「変ロ」から始めることにすると、
ということになる。丸いカッコでくくった音が新しい「ドレミファソラシド」である。これは「変ロ」がドなので、長調であれば変ロ長調ということになる(これに対して最初のドレミは「ハ長調」)。
このようにして、いったん作った歌のメロディをまったく変えないまま、高音や低音の声が出ないという歌い手の要求に従って、一二音のどこでも自由に「ド」を選ぶことができる。これを「移調」という。
「つまり」
と直人は聞いた。
「あの歌をホームルームで披露したら、キーを変えてくれと」
「そう。そんな高い音は出ない、というヤツがいてな」
「しかたなかったの。低いほうが出ないという人もいるし」
音楽の教科書に載っているような曲や、国歌や校歌だったら、いいから歌え、裏声で歌え、となるだろう。しかし、これは西村が今作った新しい曲だし、クラスのメンバーのための曲だ。だから「音が出ない」という要求に対して、西村は調子を変えて対応するしかなかったらしい。直人はオルガンの譜面台に置いてある、楽譜を覗いてみた。今回の五線譜の頭には、前回と違い、ごちゃごちゃとシャープの印がついていた。
上で述べたように、曲を移調すると、大まかにはメロディは変わらない。が、これはあくまでも理論上そうである、というだけの話である。実際には、もう少し、数学的に説明できる深い事情がある。
まず、音というのは空気の振動であり、音階というのはその振動の速さ、周波数のことだが、ある「ド」と、1オクターブ上の「ド」は周波数がちょうど倍半分違っている。ギターの弦が音源であれば、単純に弦の長さが半分になった状態である(周波数が高いほう、弦の長さが短いほうが高いド)。十二の半音階が「等間隔」であるというとき、これはつまり、隣り合った音同士の比率が一定である、ということを意味する。対数目盛り上で等間隔、ということである。
ドから上のドまでが2倍違うので、ドとド#との比率は(そして他の隣り合った音同士の比率もすべて)「2の12乗根」という数字になる。この数字をrとするとr12=2ということである。2の12乗根は関数電卓があれば計算できるが、これは1.05946…という無理数で、各音程を、隣同士、この比率でとっていって作った音階を「平均律」と言う。
問題はこれからだ。平均律を使って調律された楽器は、移調をしてもメロディが変わらない。十二音が完全に等間隔(等比率)であるのだから当然である。ところが、この平均律は、ハーモニーが、たとえばドとソの音の調和が悪い、という欠陥があるのだ。
もともとの、ギリシャ時代からある定義では、ドとソはちょうど1.5の比を持つ音である。弦の長さが30センチの音をド、15センチの音を一つ上のドとすると、20センチの弦が奏でる音がソになる。このような単純な整数比の周波数を持つ音は、うなりの生じない、非常に綺麗なハーモニーを作る。比は単純であるほど心地よく感じるようで、ドと上のド(1:2)の次に単純な比がドとソ(2:3)というわけである。ちなみに上のドとファが(3:2)の比を持つ。
ところが、平均律ではこうならない。上で書いたrの比で音階を作ってゆく平均律では、ドとソはrの7乗の比を持つが、この値は1.5ではなく、約1.498になる。違いはわずかなのだが、余った差はうなりとなって聞こえてしまう。従って、今、ハーモニーを手がかりに楽器を調律すると、おそらくこのほうが音楽は美しく聞こえるのだが、平均律からはずれてしまうことになる。このオルガンは、何らかの調律が施されているとして、それはたぶん平均律から遠く離れたものに違いない。そしてこの場合は、無理な移調をするとドレミファの比率がずれてくるのだ。調子が外れて聞こえてしまうことになる。
「このオルガンで練習するなら、無理しても元の調子で練習するべきじゃないかなあ」
と、しみじみと直人は言って、とたんに後悔した。仙石も西村も、こちらを怖い目で見ているのだ。西村が何か言おうとして、黙ってしまった。直人はどきどきしたが、やっと仙石が、言った。
「ほら、あるじゃないか」
仙石は西村の肩に軽く手を置く。西村は仙石を見て、少し笑った。
「音楽的審美眼よりも、作曲家としてのプライドよりも、大事なものが、さ」
「あ、ああ、そうだな」
直人はあいまいに同意しながら、そうなのか、と思った。
「うん、それはそうだ。クラスの結束のほうが、大事かもしれない。クラス歌だもんな」
その後どうなったのか、クラス歌がああなってしまったことで、そもそもクラスの結束は固まったのか、直人にはずっと後になってもついにわからなかった。合唱コンクールにも学祭にもこの歌は出てこなかったし、結局は隣のクラスの話だからでもある。ただ、難局を乗り越えたことでか仙石と西村は親密になったようで、それはなによりだと、ほとんど男子クラスになってしまった五組の教室で、直人は思ったものだった。