怒りのブドウ

 怒って書いた文章はろくなものではない。これは今まで三十余年生きてきた切実な実感である。客観的に見て私は、どちらかといえば怒りっぽいほうではないかと思うのだが、その一方で、その怒りがあっという間に冷めるタチでもあるらしい。よく「一晩寝て考えてみると私も悪かった」というような表現があるが、私はそれよりも短時間で、たぶん「トイレに行ってきてみると私も悪かった」くらいの急激さで怒りが去ってゆく。しかも大ではなく小用を足してきてみると私も悪かったのだ。

 問題なのは、私という男は怒っている最中に文章を書く癖がある、ということである。文章というのは大抵手紙(電子メール)なのだが、抗議の気持ちをとにかく文章にしたくてたまらなくなる。これこれこういうわけで私は怒っています、さらにこういった理由であなたは間違っています、ということを、言葉を選び、表現を探し、比喩を考え、論理構成を見直しつつ、首尾結構を整えて一本の文章にしていると、妙な話だが冷静になるよりもますます気持ちが盛り上がってきて、この、手元に完成した、結構うまく書けた気もする抗議の文章を相手に送り付けてやらねば収まらない気がしてくる。

 などと書くとなんだか冷静に対処している感じもするが、解説するならば、実は最初は相手に送るつもりなどなかったのである。書き始めたときには「論理的に書くことで自分の気持ちがまとまるかも知れない」と思っている。誰の目にも触れさせるつもりはなく、ただ気持ちを整理する意味で書いたはずの文章が、たまたまうまく書けてしまうと、怒りも冷めやらぬまま機械的にまとめられて、まんまと相手の目に触れてしまうことになる。これは危険だ。非常に危険なのである。なぜかというと、実はちっともうまく書けてなどいないからだ。

 以前、あるオンラインストアでモノを買ったときのことである。誕生日のプレゼントのつもりで買ったのだが、初動が遅れて、注文が誕生日の十日前くらいになってしまった。たとえば注文が1日、誕生日が11日、という状況だと思われたい。ただ、このとき「一週間から二週間で発送できます」という条件が書かれていたので、うまく行けば誕生日までに手に入るかもしれないという状況である。

 どこでもそうかと思うが、このサイトでも注文後、現在の処理状況を表示できる「確認ページ」というものが用意されている。実際のところ発送日はいつなのかと思ってこれを呼び出して見てみたところ「15日」と日付が入っていた。つまりこれは、もともとの「一週間から二週間」という約束の、一番遅いところを報告してきているわけである。私はこれを見て、ああそう来るか、と思った。「一週間から」の部分はつまり嘘であって単に「二週間」(もっと言えば「14日」)と書いとけばいいじゃないかと思うのだ。しかし、まあ、世の中とはそういうものだ。しかたがないことである。

 怒りはこれからである。それから数日が経った。日付は5日になっている。同じオンラインストアを覗いていて、ふと、同じ商品の発送条件が「五〜七日で発送できます」と変化していることに気が付く。たぶん、不足気味だった商品の供給態勢がやや改善されたということなのだと思う。めでたいことなのだが、喜んで上の「確認画面」をもう一回覗いてみると、あにはからんや、私の注文に対しては、確定発送日は15日で変化がない。

 私はここで怒った。複雑な怒り方をするようだが、ここで私は怒ったのだ。もしも今日(5日)初めて注文した人がいたとすれば、発送日としては最も遅くて12日になるはずである。ところが、私の注文は依然として「15日に発送」ということになっている。まさか後から受けた注文を先に処理するとは思わないが、それならそれで既存注文分の発送予定日を書き直すべきではないか。「一週間から二週間」をいきなり「五〜七日」に変えるのではなく、後先が生じないように少しずつ「六日から一二日」「五日から一一日」の調子で短くしてゆく方法もある。

 たぶん、システムの仕様としてこういう細かい納期表示はできないようになっていて、また、確定日よりも早く発送するぶんには文句が来ないということで、不測の事態を含め、なるべく納期は長く取る方向で処理する内規になっているのだと思うが、こういう細かい気配りができないのなら、過去の注文の処理状況を表示する確認ページなど作らなければよいのである。自分の安全ばかりを追求して、待っている人のことを考えたつくりと言えるだろうか。

 この後のことはあまり書きたくない。私は猛然と怒り、以上の内容を噛んで含めるように説明する文章にして、苦情窓口から送りつけた。すぐに返事がなかったのでさらに怒りを募らせてもう一回送った。実はこの一連の苦情に対しては最後まで特に返答がなく、この点においてはどうしたものかなと思うのだが、それでよかったような気もする。あとで自分が送った抗議の文章を読み返してみると、これがもう、ひどいものだったからだ。全体として言いたいことはわかるが、厳密には意味が通らない文章が散見されるほか、誤変換まである。

 だいたいにおいて、苦情や苦言を申し述べるときには、文法や言葉遣いに対して普段よりもずっと高度な集中力が求められる。ほめる時推薦するときにはかなりいいかげんに書いても許されるのだが、言われたほうが快く思わないような内容だと、文の最初から最後まですべてについて、それはもう本筋に関係ない言葉の端々まで気をつけていないといけない。もちろん、本当はどんなにひどい文章でもそこに一片の教訓が読み取れれば、他はとりあえず置いて、教訓に耳を傾けるべきである。そのはずだが、人情としてなかなかそう賢くは考えられないものだ。たとえば、

「あなたの服装はだらしない、もっと中学生らしくちゃんとしなさい。女の子なんだから」

と言ったとする。聞いた方は「だらしない」を教訓として、だらしなく見えないように気をつけようと思うだろうか。そんなことはない。わからないが、たぶんそう考えない場合が多いはずだ。「『ちゃんとする』って何だ、中学生らしいって何だ」「女の子だとどうして服装に気をつけないといけないのか、男女差別じゃないのか」等と考え始めるのである。根本に「服装のことを指摘されて腹立たしい」という気持ちがあるので、余計にこういううかつな細部に目が行ってしまう。だからといって、単に、

「だらしなく見えないように服装に気をつけなさい」

と注意したとしても、どうしてだらしなく見えてはいけないのかと思うだろうし、だらしなくても自分は自分だ等と考え始めるかもしれないし、では注意するほうの普段の言動はちゃんとしているのかとか、声の掛け方がいきなりで不快だとか、乗っている車が成金趣味だとか、そのスットンキョウなメガネはなんだどこで買ったんだいくらだったんだとか、戦線を広げるべき別の方面は常にあるのだった。本当に苦情は難しい。

 そして、ああなんとしたことか、私のメールにゃ誤字があるのである。しかもその後、注文した商品はちゃんと11日に届いたので、格好悪いといえばこんなに悪いものもないのだった。繰り返しになるが、本当に返事が来なくてよかった。きっと担当者は私のメールを読んで腹を抱えて笑っているに違いない。自業自得である。

 いや、電子メールの場合は、相手が読めばそれでおしまいなので、まだ傷は浅い。もっと困るのは「雑文」と称してこのコーナーの一文としてまとめてしまったような場合である。私も探さないのであなたも探さないで欲しいのだが、いやもうこれは真剣なお願いなのだが、後で読み返して頭を抱えたくなる「怒りの文章」というものが、ちょくちょくと存在する。身もだえしつつ、今後の糧としたい。いや、だから探さないでって言ってるのに。あああ、だめだめだめ。やめてー。


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