港にその船が着いたのは今朝早くのことだ。しばらくぶりの船の到着で、この島では、朝から船の話題で持ちきりだった。積み下ろされた荷物の山で小さな港はたちまち一杯になったが、検疫やあれやこれやで、あとしばらくは時間がかかる。荷物には何が入っているのか、大人たちが期待をこめて語るのを横目で見ながら、ぼくたちは学校に行かねばならなかった。もっとも、先生だって荷物を早く見たいのは同じだったらしく、授業は定時で終わった。
学校が終わると、ぼくは校庭の端にあるジャングルジムに登った。ジムのてっぺんに登って、両手をそっと離し、その場で思い切って立ち上がる。海からの風が気持ちいい。丘の上の高台にある学校からは、こうして見ると港が一望できるのだった。
港は、防災上の必要があって、高い壁(火災に備えてのものではないが、歴史的に「防火壁」と呼ばれている)で街から切り離されている。ぼくよりももう少し年上の子たちにはいろいろと裏技もあるのだろうと思うが、まだ子供に過ぎないぼくにできるのはこれだけだった。
その日も、ジムのてっぺんからの眺めは素晴らしいものだった。水平線に囲まれたこの島には、小さな入り江があり、そこに設けられた港に、優美な貨物船が到着している。船からクレーンで積み下ろされるコンテナやパケットを、港湾職員や検疫官が一つ一つチェックしているのが、ここからでも見えた。あれはどこからの荷物だろう。世界は広く、この小さな島でさえぼくにとっては広すぎて、水平線の向こうは、ぼくにとってみな同じ「海外」でしかなかった。
ぼくは長いこと、こんなふうに一人で眺めを楽しんでいたので、その時間、町で大騒ぎが持ち上がっていることを知らなかった。ジャングルジムの上で数犬時もつぶしたあと、もうそろそろ、ぼくにも最初の荷物の一つも届いているかもしれない、と気がついて町に出たのだが、ぼくはそこで初めて、ウィルスのことを知ったのだった。
「どこかに、悪いウィルスが混じっていたらしい」
とぼくに教えてくれたのは、町で出会った年長の友人の一人だった。
「ウィルス?」
とぼくは尋ねる。
「ワーム?トロイの木馬?」
「まだわからない。詳しいことは誰にもわからないんだ。でも、とにかく汚染されたパケットがあって、それを覗いてしまうと、もう見ただけでダメらしい。新しい『セキュリティホール』を通して、毒が入ってくる」
ぼくはぞくっとした。新しい「セキュリティホール」。なんということだろう。十分なテストを経て、完璧に作られているはずのぼくらの体に、ときどきそうして新しい穴が見つかるのだ。
「じゃ、全部の荷物を海にでも捨てちゃえばいいんじゃない」
「そういうわけにも行かないんだろうよ。悪いパケットはほんの一部で、残りは重要な書類もある。なんとか確かめないといけないが、覗いただけで感染するとなると」
そこにやってきたのは大人の一人だった。
「その話なんだが。お前たち、港に行ってみたりするなよ。かなりひどいことになってる。吉田さんが覗いてみたが、ダメだった。最新のパッチに包まれていても、影響を受けるらしい」
「そんないいかげんなことって、あるもんかい」
友人は誰にともなく、そう言った。ぼくは自分の体を眺めてみた。どこかに穴があるなんて、信じられなかった。
「防火壁の向こうで暴れてるだけで、今のところどうということはないんだけどな」
壁にはそういう機能がある。それで友人も、ほかの大人たちも、それほど慌ててはいないわけだ。それから、その大人が、咳払いを一つして、こう言った。
「それでだ。きみ、大急ぎ、マック爺のところに行って来てくれないか」
ぼくは目を回した。山の中で、世を捨てたようにして生活している爺さんは、誰でもかれのことを知っているが、普段誰からも相手にされていないという、そういう立場にあるひとだった。この危機にあたって、かれの協力が必要だ、とこの大人は言う。
「ええっ、なんで、ぼくが」
大人は頭かきながら、いやあ、とかきみはひまそうだから、とかなんとか言った。ぼくは友達と目を見合わせたが、最後にため息を一つ残して、いいつけに従うことにした。いまぼくが、何の仕事も抱えていないのは確かなのだ。
と、そういうわけで、ぼくがマック爺のところを訪れることになったのだった。「世捨て人」というのが、その老人を形容するのにぴったりのあだ名だ。ふだんは誰とも付き合わずに、一人で生活している。学校の裏山の、けものみちのような狭くて急な坂道を登ってゆくと、こざっぱりしてはいるが、小さくて、あちこちつぎをあてたような古臭い家が見えてきた。ぼくは、切れた息をドアの前でしばらく整えて、それから意を決してドアを叩いた。返事はない。
しばらくそのまま待っていて、ぼくはやっと気が付いた。世捨て人、マック爺さんは、ぼくらとアーキテクチャが違う。やっとノックのしかたを思い出してドアを叩くと、中から出てきたのは、とんでもない老人だった。爺さんは、こっちを見て、少し笑った。やりかけの仕事を放り出して来たのだが、というようなことをもぐもぐと話しているらしいが、言っていることがよく聞き取れない上、顔はぜんぜん嫌そうではなかった。
爺さんは、ぼくよりもずっと古い。なんといっても、八〇犬年も前の製造だ。あちこちにがたがきているうえ、構成されている演算装置なども一回り以上遅いので、会話はじつに持って回ったものだった。だいたい、共通であるべきプロトコルさえ、冗長性が高いかわり効率が悪い、古いものを使っている。挨拶一つするにも、
「こんなところまでよう来たな……ぼうず…大きくなったな…学校はどうだ……しっかり食べとるか…お前のお母さんは……わしがお前を最後に見たのは…」
という具合で、なかなか本題に入れない。ぼくは、爺さんの言葉をうんうんと聞いたり、曖昧にこたえたりしながら、こっそりライブラリからドライバをダウンロードしなければならなかった。この隙に宿題の一つでも片付きそうだった(やらなかったけれど)。
大人や年長の友達だったらいらいらしていたに違いない、じれったい時間のあと、爺さんはやっと無駄話をやめ、重い腰を上げた。
「じゃあ、ぼうず、ちょっくらわしが行かなくちゃなるまい。そこをどいとくれ」
ぼくは咄嗟に言った。
「あっ、あの」
爺さんはこちらを振り返って、ん、という顔をした。
「あの、ぼくも一緒に行くよ」
どうしてそんなことを言ったのかわからない。ぼくの役割は爺さんに事件を伝えて港に行って貰うことだし、別に爺さんのことを好きでもなんでもないのだが、危なっかしいような気がして、つい、そう言ってしまったのだ。
「いや」
と爺さんは、しわだらけの顔をゆがめて笑った。がさがさする手でぼくの頭をなでると、
「ぼうずはここに残っとれ。悪い病気にかかっちゃなるまい」
と言った。
それでも、結局ぼくは防火壁のそばまでついていった。爺さんの体は小さくてよぼよぼで、港までに何回か再起動が要るんじゃないかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。爺さんは道すがら、昔出会ったうかつなスパムや、ジョークソフトのことを、面白おかしく話してくれた。冗談みたいなウィルスや、テキストばっかりの手作りのサイトのこと。へんてこな周辺機器。爆弾を表示して止まるシステム。昔は、いい時代だったらしい。いや、どうなんだろう。
とうとう別れるとき、爺さんはぼくに向かって、軽く手を振った。それだけだった。ぼくはその場に立ち尽くし、そして、爺さんの小さな後すがたが、壁の向こうに消えてゆく。その向こうには、ウィルスに感染した、暴れまわる港湾係の姿が見えた。
しばらくそうしていて、やっと気が付いたぼくは、それからあわてて学校の、校庭の端のジャングルジムに戻った。何度も落っこちそうになりながら、やっと登ってみると、爺さんが、わけのわからないピンをがなりたてるかわいそうな港湾係をものともせず、パケットを一つ一つ開いてみているのが、遠くから見えた。爺さんの仕事は、ぼくと話していたときのように、遅くて、じりじりするほど非効率だったけれども、爺さんは決して焦らなかった。クロックが違うのだから、焦りようもないのかもしれない。恐ろしいウィルスだかワームだかも、気にもしていないようだった。やがて一つのパケットを開けた爺さんは、満足そうに頷くと、そのパケットを消去した。こうして、ぼくらの島の小さな危機は、(とりあえず)終わった。
それからどうなったか。皇帝府はそのあとしばらくして、緊急公告を出し、新しいパッチを発行した。そのパケットが港に届いて配布されて、ようやく、ゼロデイの危機は乗り越えられた。悪いパケットを送り出したのが誰なのかはまだわからない。もしかして最後までつかまらないかもしれない。ただ、少なくとも、この島に関して、この脆弱性に限っては、もう解決済みの問題になった。ぼくらはまた一つの免疫性を獲得したわけだ。
ぼくらは爺さんに感謝したろうか。そこそこはした。モノカルチャーの危険がどう、というようなことを議論して、有事に備えるべきだと話す大人も、ぽつぽつと現れた。だけど、事件が終わってみると、爺さんはまた、何をするということもなく、町外れの自分の家に閉じこもってしまっている。ぼくにしてからが、あれから爺さんのうちを尋ねたことなどないのだ。
今日、ぼくはいつものようにジャングルジムに登ると、港のほうではなく、ぐるりと顔をめぐらして、爺さんの家のある、山のほうを見てみた。ジャングルジムから見てみると、そこにはうっそうとした森があるだけで、どこに爺さんの家があるのかもよくわからない。爺さんは、今日も、実現しなかった自分の世界を夢見ながら、どこかの研究所のパケットを請負仕事で解析しているのだろうか。非効率なやりかたで、うつらうつらと。