朝日新聞を読んでいない人にはもう一つわからない話だと思うが、朝日新聞朝刊の四コマまんがは、現在いしいひさいちの「ののちゃん」である。ののちゃんというのは小学生の女の子で、この本人もさることながら、なんと言ってもののちゃんの学校の先生(藤原先生)こそが注目すべきキャラクターである。どう特別かというと、とにかく「ぐうたら」なのだ。
これはぐうたらなところがあって面白いというようなレベルではない。登場するどの回も、とにかく徹底したぐうたらさを誇っているのだ。存在そのものがぐうたらに立脚しており、それどころかむしろ、このぐうたらを武器にこれからの時代を渡ってゆくのだという強い決意さえ感じられる。ここまでのダメ人間を、多感な世代である主人公たちの担任教諭として登場させ、それを全国紙の朝刊に載せつづけるというのは、もはや反社会的なことではないのかと、いや、本気で思っているわけではないのだが、ちょっとどきどきすることもある。
まさかそういう恐れがあるからではないと思うけれども、同じ新聞に、小学生あたりをターゲットにした、対話形式で科学の疑問に答えるコーナー「ののちゃんのDO科学」があって、ここにも、ののちゃんと藤原先生が登場している(以前からあったと思うが、今は新設された日曜版に載っている)。そして、この記事に出てくる藤原先生が、様子が違うのである。科学的なテーマに沿った、ののちゃんの素朴で鋭い疑問にてきぱきと答えるこっちの先生には、ぐうたらなど薬にしたくもない。科学の話題をわかりやすく説明してくれている真人間である。もとのキャラクターで科学質問箱をやるわけにはいかないだろうが、このギャップには驚愕する。もしかして、もとの四コマの作中世界でも、日々のうちとくにひどかった事件だけを取り上げてまんがにしているだけで、いったん授業が始まったらこのようによい先生なのだろうか。あるいは、双子の姉妹がいるとか。
私がこのように戸惑っているので、だから朝日新聞は早急にどちらかをどうにかするべきだ、と言いたいわけではない。要するに、今回はこの「ののちゃんのDO科学」のコーナーに出てきた話題を導入部に使いたかったのである。先週の日曜日のテーマは「光の速さはどう測るの」。光速度をどうやって測るのか、どういうふうに測られてきたか、という内容がコラムにまとめられている。科学史について確たる知識があるわけではない私が保証したところで何にもならないが、藤原先生は間違ったことは言っていないと思う。ぐうたらのくせに。
(たぶん)この宇宙で一番速い「光」。この速度を測定しようとした苦闘の歴史は、最終的には「光の速度を定義に使う」という、言ってはなんだがオチがつく方向で終わる。速度とはなにかということになるのだが、歴史的には、時間が一日(太陽が南中してから次に南中するまでの時間)を等分して「時間」「分」「秒」が定義され、距離(特にメートル)が地球の大きさを元に決められた。この「秒」と「メートル」を単位にして、光がある距離を進むのにかかった時間が「光の速さ」、単位で言えばメートル毎秒ということになる。
ところが、測定器の精度が上がり、測定が精密にできるようになってくるにつれ、いろいろと具合の悪いことが出てきた。このあたりの経緯は紆余曲折があってなかなか面白いのだが、たとえば長さに関していうと、最初の定義(北極から赤道までの子午線に沿って測った距離の一万分の一)がまず捨てられ、各国に配られた「メートル原器」の長さが採用されて、それからある原子のスペクトル線の波長による定義に変えられた。ところが、最終的に、もっとも精度よく長さを測定できるのは他ならぬ「光の速さ」である、ということになって、これを定義に使うことになった。
「光の速さを精度よく測定したい」という文脈で見ていると、これはある意味で、測定しようとするものより定規のほうが精度が悪くなってしまった、ということである。考えてみれば、物理法則上、真空中の光の速さは誰がどこで測っても一定と考えられるので、光の速さを基準に使うのは理にかなっている。その上、測定も精度よくできるのであれば、これを使わない手はない。実はこう決まったのは比較的最近の、1983年のことなので、今30代くらいの大人で、メートルの定義は学習雑誌で読んだきり、という人は、このことを知らないかもしれない。
というわけで、今や光の速さは「定義」なので、ある時間に光が進む長さが1メートル、ということになる。こうなってしまうと、光の速さは2.99792458×108m/sだが、物理定数としては異常なことに、これには端数も誤差もなく、2.99792458×108m/sきっかりである。これからも測定技術は進歩するだろうが、光の速さの桁数が上がることは(定義が変わらない限り)決してない。そのかわりに、メートルの長さそのものがちょっと変わるということになる。なにか気味の悪さを感じるが、そういうものだ。
今回の「DO科学」のコーナーでは、最後に、ののちゃんがこのあたりに対して素朴な感想をぶつけている。2.99792458ではなく、3ぴったりにしておいたらよかったのに、ということなのだが、先生は「過去のデータが使えなくなるから、そうはできなかったのね」と答えて結んでいる。その通りだと思うが、よくよく考えてみると奇妙なことである。これが仮に3.141592653×108m/sなら、いくらののちゃんでもこれを3に切り捨てるべきだとは思うまい。どうしてこんなに光の速さが3に近い数字になるのか。
3に近いということには、そうなってしかるべき必然性はなにもない。上で書いたように、メートルは地球の大きさ、秒は地球の自転をもとに最初決められたわけだが、大きさはともかく、地球の一日の長さは潮汐の影響で毎年少しずつ遅くなるもので、今この瞬間の自転速度に特に天下り的な(というのは、物理学や生物学上の要請に根ざした)意味があるわけではない。しかも、メートルは地球一周の四千万分の一だし、秒は一日の86400分の一でどちらもやや恣意的だが、これも光の速度をぴったりにしようと思って考えた分割法ではないのである。
そんな勝手に決めたメートルと秒が、比率にしてみると光の速度のきっちり3(億)倍からわずか0.07%の誤差で一致するのは実に不思議なことである。よく、「光の速さは一秒間に地球を七周半」というが、普通に「東京ドーム何杯分」というときと異なり、本当に、誤差0.3%以内で七周半(4×7.5=30だから)なのである。このようなことは、普通はあってよいことではない。
あってよいことではないが、そうなので、まあ、そういうものだと思うのだが、確かに、ここまで来ると、あと0.07%、なんとかならなかったのかと欲が出てくるのはしかたないことである。歴史上どこかでえいやっと「新メートル」または「新秒」というものを決めればよかったかもしれない。絶対の必要があれば、測定器を変更し、過去のデータを換算し、というのはやってできないことではない(現に、真空度の単位をTorrからPaに変えたりなど、SI単位系に関連してそういうことは行われている)。しかし、まあ、そこまでして光速度をきっちり3億にしても、あまり得るところはないのだろう。それで得をするのは光の速度が計算に入ってくる学者や技術者だけだし、計算の簡単のためなら、秒もメートルも捨てて光の速度を1とする単位系を使えばよいのである(実際にそれを習慣にしている物理学の分野も多い)。
「秒」という時間単位は、1967年以後、地球の自転ではなく、セシウム原子の超微細準位間のエネルギー差を利用して定義されている。この遷移によって出てくる光の振動を数えて9 192 631 770回分、ということである。地球一周の長さがぴったり四万キロメートルでないのと似た理由で、こう定義するともはや一日は86400秒ではない。これでずっと一日を測定していると、やがて誤差が積み重なってくる。この誤差を埋めるために使われるのが、よく知られている「うるう秒」である。実際の惑星の運動と時計を比較して、ずれるときはうるう秒を時計に入れたり抜いたりして、誤差を修正することになる。
原理上、地球の自転はばらつきつつも少しずつ遅くなってゆくはずなので、秒の定義がずっと変わらないとしたら、今後、うるう秒の頻度はだんだん高くなってゆく傾向になる。現在のところどうかというと、この制度が決まった1972年から2000年までの間に、22秒、常に入れる方向で行われた。ああ、自転が遅くなっていっているんだなと思ったが、よく考えてみるとそうではない。調整を入れたのがいつかという表を見てみると、このあいだの調整量は、ほぼ一年に1秒ほどで一定しているのである。もし、地球の自転が遅くなっていたとしたら、以前よりも最近において、多数のうるう秒による調整が必要になるはずだ(が、そうなってはいない)。
とすると、要するにこれは、最初の秒の定義が、やや短すぎたということになるのだろう。仮に原子定義による一秒が今の一秒よりもわずかに、ほぼ一年につき一秒ぶん(三千万分の一くらい)長かったとしたら、この間のうるう秒の調整は必要なかったはずである。「9 192 631 770回」の最後の「770回」のところを「500回」にするくらいのところだが、誰も気にしなさそうなこのへんの調整を正しく行っておれば、うるう秒はもっと珍しいものになっていたはずだ。もちろん現実は、誰も気にしないどころではなく、こちらも藤原先生が説明するところと同じ、変えてしまうとたいへんなことになる数字である。一秒の長さが30ナノ秒も変わることになるが、こんなに変えるくらいなら、時計をときどき調整するほうがマシだというのは、もっともなことだ。
さて、以上の議論は、2000年ごろに書いたなら問題なかったのだが、最近になって、多少事情が変わっている。実は、1999年1月1日に最後のうるう秒挿入が行われて以後6年半、現在(2005年7月分)まで一度も調整が必要なく、行われていないのだ。これはつまり、20世紀末ごろに比べ、地球の自転がごくわずか加速した、そして秒の定義に地球のほうが合ってきた、ということを意味する。理由は私にはわからない。結局は、秒の定義は現実の一日に精度よく合った、非常にすばらしい決断だった、ということになるのかもしれない。メートルの定義が光速度をそこそこ覚えやすい数字にする、たまたまだがけっこうすてきな判断だったのと同じ意味で。