五分の魂

 そういえば、季節は夏である。夏休みに入って、はや八月を迎えた三年生、岩城直人の高校は、しかし、依然として校内に生徒の姿を見かけないではない。補習授業や部活動があるからだが、まあ、夏休みは夏休み、どことなく緩んだ雰囲気があるのは確かで、本日の補習授業をようよう終え、約束の時間まで校内をしばらく散歩なぞしてきた直人は、人気の絶えた廊下や窓の外に広がる夏空に、なにか非日常を感じて楽しんでいた。

 結局、約束から五分遅れで、がらりと化学教室の扉を引き開けると、もう高木も初瀬も来ていて、直人は思わず「すがは」に似た音を喉から出した。今朝、母親に「いってきます」と言って家を出てからこちら、通学、補習授業中、その後を通じてほとんど黙っていたので、声が出なくなっているのだった。咳払いして、もう一回。
「すまんです」
「いやいや、お疲れおつかれ」
 ぺんぺんと手を叩いたのが高木一元である。直人も部員の一人として名を連ねている化学部の、部長をしている。直人と同じく三年生だ。行儀悪く、実験テーブルの上に腰掛けている。
「おはようございまーす、岩城さん」
と、夏服の白もまぶしい松戸初瀬は、機嫌が悪くはなさそうだ。この、薬学部志望でなかなか成績もいいらしい松戸初瀬の顔を見るたび、直人は彼の母方の叔母のことを思い出す。悪意はないが、表明するときっと怒られる類の感想である。こちらは今年二年生で、化学部の次期部長に決まっている。化学部にはこれでも他に十数人の「非幽霊部員」がいるが、今、この教室にいるのはこの二人だけである。二人に向けて、これこれこういうわけで遅れてしまって、と直人が説明しようとするのをさえぎって、高木が言う。
「いいんだいいんだ。はじめようや」
 なにを始めるかと言うと、夏休みが終わる前に、秋の文化祭の発表内容を決めて、いろいろな申請書類を書かなければならないのだ。文化祭の実務は初瀬たち岩城の後輩がやることになっているが、許認可申請は先輩達の最後の仕事ということになっている。ある意味で部活動の最後の引継ぎのようなものだ。直人はもう一回ぺこっと頭を下げて、席についた。

「そうだ、蚊がいるんだよ」
 黒板の前に立って、チョークで何か書こうとした高木は、開口一番、そう言った。
「岩城、蚊取り線香みたいなの、どっかにないか知らないか」
 直人は咳払いを一つしてから言った。
「いや、知らない」
「また。そんなことどうでもいいじゃないですか」
と初瀬。
「いやあ、おれもう、あっちこっちかまれちゃってさ」
 と高木はふくらはぎのあたりをしきりに気にしている。
「ちょっと高木、かむって何だ、蚊はさすものじゃないのか」
 直人が思わずそう言うと、高木はにや、と笑った。初瀬と高木が、蚊に歯はないとか、最大限譲っても蚊はくうものだとか、よく「蚊サス」って言うじゃないかとか、そういう噛み合わない会話を始めたところで、直人は、あ、と言った。
「なんですか岩城さん」
「思い出した。確か去年部費で買ったんだ」
 直人は席を立って、準備室への扉を開けた。なんか、あるとすればこのへんであるような気がする。

「岩城さん」
「なに、松戸さん」
と、化学教室の隣、狭い化学準備室で、結局初瀬と高木を巻き込んで蚊取り線香の捜索中である直人は答える。
「思うんですけど、蚊というのは、食物連鎖の頂点にいるんじゃないでしょうか」
「いやそんなことないだろ」
「だって、食うか食われるか、それが食物連鎖ですから。人間は蚊を食わないのに、蚊は人間を食うんですから」
「うーん」
 直人は古い文房具が入っているクッキーの缶を開けた。蚊取り線香はない。
「おれもそう思うよ、初瀬ちゃん」
 高木が口を挟む。高木は、なぜ化学準備室にあるのか誰も知らない海外旅行用のトランクの中を捜索している。埃がひどい。
「だから、蚊だけは叩いても殺してもいいんじゃないかとおれは思う。自然界の正当な生存競争なんだよ」
「カブトムシやちょうちょを同じペースでは殺せないな、確かに」
「あっ」
と声を出した初瀬のほうを、首を伸ばした二人の男が見る。
「こんなのが。これなんかどうでしょう」
 初瀬がこっちに向けて、見つけた線香の束を振って見せる。直人はゆっくりと首を振った。仏壇に供えるお線香じゃ、蚊は落ちないよ松戸さん。

「しかし、確かに、虫はべつに痛いことも苦しいこともないんじゃないかと思うね」
 高木はそう言う。
「そうなんですか」
「いやわからないけど、花は、つんでも痛がらないだろ。そのはずだよ。神経ないから。おれらにしてみたら、髪の毛を切られたのに近いんじゃないかと思うんだ。で、おんなじことで、虫くらい単純なシステムになると、かなり『自動機械』みたいなのに近いだろうと。虫がいたそうだとかくるしそうと思うのは、自転車がきいきいいうのを『かわいそう』と思うのと同じくらい、へんなことかもしれない」
「それは、へんてことはないだろ。感情移入てやつだろう」
と直人は言う。
「うん、でもな、その感情移入は比喩だから。比喩をもとにして意思決定するのは見当違いかもしれないと、そう思うんだなあ、おれは」
「わたし、自分のパソコンの機嫌が悪いとか、言いますよ」
「あ、ああ、なるほど」
 直人は突然合点がいった。そういうことか。
「最近のパソコンの処理能力が、そろそろ虫のレベルまで近づいている、て聞いた。どっかで」
「おう、それそれ」
「そうだとすると確かに、虫を殺すのとパソコンを壊すのと、同じくらいの倫理的な問題になる…日も近いかもしれない」
「パソコンは自分で増えたりしませんよ」
「でも、子供作らない人は人間じゃないわけじゃないだろ」
「ああ、そですね」
「心置きなく蚊が殺せるかどうかは別問題だけどな。パソコンも大事、蚊も大事という立場もあるだろうから」
「わたし、今なら殺せそうな気がする」
と初瀬が右腕をひっくり返して、いまやられたらしい、被害状況を調べている。
「しかしこの先、パソコンがもっと進歩したら、どうなるかな。ネズミやネコあたりより高機能になったら、どうなるんだろう」
 直人も初瀬も、ただ首を振るしかなかった。ただ、悪くはない気分だった。そうやって、まだ来ない未来を考えてばか話をしたり、埃だらけの準備室を引っかき回したり、初瀬が腕に爪でばってんを作っているのを見たりしていると、部活動が今日でおしまい、という事実を、しばらく忘れていられる気がしたからである。

 結局、夕方近くなるまで何も決まらなかった直人たちは、明日の再会を約束して別れることになった。遅くなると腹も減るし化学教室が西日で暑くてどうしようもなくなるしで、そういうことになったわけだが、それまでに「頬骨の上」を含めて七ヶ所もやられた直人は、これなら我慢して普通に議事を進行しておいたほうがよかったのでは、と思った。本気でそう思ったわけでもなかったが。

 ぺこっとお辞儀をして、帰ってゆく初瀬を見送って、直人は高木に言った。
「引退が、一日のびたな」
 高校生活の、終わりの始まり。見慣れた廊下を走るように小さくなってゆく初瀬の後姿をじっと見ていた高木は、何を思ったか、うんうん、とうなずいて、直人の背中をとん、と叩いた。
「うん、まあ、人生、そういうこともある」


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