「田中パン店」というのは、私の家の近所のパン屋さんの名前である。たぶん田中さんが営業しているパン屋さんではないかと思うものの、本当のところはよくわからない。小さな店だが、自分のところで焼いたパンを出している。ショーケースに置いてあるパンに、その場でジャムを塗ってくれたりするらしい。近所の肉屋さんでも「田中パン店のパン」を販売している。これでその場でコロッケパンを作って食べるのである。非常においしい。
さて、パンといえばアンパンマンである。やなせたかしがそういう意図でもって名づけたものかどうか、とにかく「アンパンマン」という言葉はものすごく発音しやすい単語であるようで、子供が一歳を過ぎて、少しずつしゃべれるようになってくると、すぐ言えるようになる。「おとうさん」「おかあさん」どころか下手をすると「アンパン」そのものよりも先に言えるようになる気がする。
このアンパンマンというやつは、すぐ「アンパンチ」と言いながら他人を殴る粗暴なヒーローで(ヒーローなのでしかたがないが)、私は見ていて果たしてこれでよいのであろうか等と思わないわけではないのだが、それがこれだけの成功をおさめた理由の一つに、このネーミングのよさがあるのは間違いない。
今回、全体としてあまり真剣な議論に応じられる精度はないのだが、たとえば「アンパンマン」と敵役「ばいきんまん」のどっちが善玉でどっちが悪玉かというのは、日本語の意味がわからない外国の子供にとっても明らかだという気がする。要するに「ア」の音が善玉、「イ」の音が悪玉ということである。あははは明るいがいひひは悪役笑いだとか、そういうレベルの話にしても、この傾向はあると思う。
一歳児に関しては、他に「シンカンセン」もすぐ言えるようになるので、一個ずつ「ン」を挟んであるのも大きいと思われるが、ア音の存在はやはり見逃せない。これはアンパンマンの底抜けの明るさと、「混線源」「珍品県」「減点ペン」といった単語を比較すれば明らかである。口の動きがあむあむあむという繰り返しもさることながら、明るさにおいてアンパンマンと比肩しうるのは僅かに「バンサンカン」か「ワンタンメン」程度に過ぎない。
閑話休題。そのとき私は、ちょっと呆然として、その動物を見送っていた。夕暮れの路上、乗っている自転車のブレーキを握ったまま、片足を道路の地面に突いて、小さな影が消えていったブロック塀の隙間を眺める。このままではいかにも心におさめがたく、私はそっと口に出して言ってみる。
「たぬきだ」
誰も聞いていないので、私は何度も、心の中で繰り返す。たぬきだ。たぬきを見た。
この町は都会ではない、とは思っていたが、まさか町中にたぬきが出るとは思わなかった。勤め先からの帰り道、自転車で通りかかった私の前を、茶色い小動物がすばやく横切って、猫のように塀の穴へと消えていったのだった。見間違いかもしれないが、あれはたぬきだと思う。こんな町中で、犬でも猫でも鳥でもないドウブツに出会うと、私はどうしていいやらわからなくなる。
私は、たぬきが入っていった家を眺めてみた。荒れ果ててこそいないが、人が住んでいるのかいないのか微妙な状態で、ただ、表札に意外にはっきりと「田中」と書いてあるのが見える。田中。
「たなかだ」
口に出して言っても何も起こらないので、私はふたたび自転車に乗って、ペダルを漕ぎながら考えた。たぬき。たなか。たぬき。ふむ。
たぬきは化けるという。いや、実際には化けはしないだろうが、伝説としては化けることになっている。化けるというのがどういうことかを考えると、仮に化けられるような目端の利くたぬきであれば、やはり、一も二もなく人間に化けるのではないかと思われる。これは私自身が人間だからこその、人間中心の世界観というものかも知れないが、実際、この世界において人間が特殊な地位を占めているのは確かで、むしろ、他に化けて面白いことなどあまりない気がする。あなたも、生まれ変われるならまた人間になりたいと思うのではないか。たぬきもそうだろう。
そういうわけだから、こう考えてみよう。過去のある時点で、日本にいた、化けられるたぬきはぜんぶ化けて人間として暮らすようになった。その際、名前がたぬきではあれなので、内輪にわかる変名として「たなか」を選び、そう名乗るようになった。なぜ「たなか」かというとたぬきの音を全部ア段にすると「たなか」になるからで、また「たぬきのおなか」の略として「たなか」になるからでもある。そうして、今現在、日本にいる田中さんは、もちろん大部分は人間の田中さんだが、中にはたぬきのたなかさんがいるという状態になっている。
さらにこう考えよう。たぬきのたなかさんたちは、たなかネットワークを縦横に用いて、人間社会を裏から操り、もってたぬきの世界をつくることを目的としている。かれらは、あるいはプロ野球やサッカーの選手として、あるいは人気コメディアン、またあるいは政治家として、あるいはノーベル賞を取る技術者として、活躍の場を見出す。なにしろ「化けられる」というアドバンテージがあるので、人間社会で成功するのは造作もないことである。私にもたくさんのたなかさんの知り合いがいるが、かれらも本当はたぬきかもしれない。そういうことはありえないと、この広い世界、長い歴史の中でたったの一例でもないと言い切れるだろうか。
ちなみにきつねがどうしたかというと、やはり人間に化け「きたの」さんとして活躍しているのである。きつねもそうだが、きたのさんは最初の音が「い」なので、たなかさんたちに比べるとやや活躍の度合いがすくないかもしれない。しかし、コメディアンとして実力を認められ、軍団と呼ばれるグループを作り、さらに今は映画監督として外国でライオンに関係した名誉ある賞を受賞したりしている、どちらかといえばたぬきっぽいあのひとはきつねかもしれない。
あの田中家に、たぬきが住んでいるのだったらどうしよう、と、夕暮れの町並みを走る自転車で、私は思う。そこで私ははっとして、思わず振り返った。そこに近所の「田中パン店」の、ふるびた看板があった。私は身震いする。これなどまさに、この町におけるたぬきのたなかさんの総本山に違いない。たぬきのおなかを叩くと「ポン」と音がするが、たなかぱんてんはたぬきぽんてんに、とてもよく似ているからである。