一般にシンプルな世界と向き合って仕事をするから、などと書くのは単純化しすぎと思うが、理系の人の通弊として、物事を杓子定規に捉えがちで、極端な解決に走りやすい、というようなことはあるのではないかと、やはり私は思うのである。たとえば私の交友範囲で「俺の自転車を盗んだ泥棒は死刑にする法律を作るべきだ」とか「この付近の独身男性を全員逮捕すれば性犯罪は根絶できる」などと極端なことを言うのはだいたい理系の友人であった。しかも、これらの人々を放置しておくと「スパマーを逮捕したら全部の指の関節を反対向きに付け直す手術をすべきだ」とか「盗人に対してスタンガンで攻撃する装備をクルマにつけたい」などと物騒なことを言い出すので油断はできない。だいたいこのような意見に引きずられて国家は戦争へと突入するのである。理系男子は皆殺しにすべきだ。
そんなことはないが、私も一応、理系の端くれなので、完璧主義の血は脈々と流れている。それはもうそこいらじゅうにぞろぞろ流れている。ここで、以下の議論のために注意しておかなければならないのだが、「完璧主義」には根本的に異なる二つの側面があるということを認識されたい。普通、完全主義とか完璧主義と言った場合、これは自分自身に対して使われる。つまり、時間をかけても完璧に向けて仕事を仕上げるべく努力する、というような態度のことを言うわけである。しかしもう一つ、似ているが別の完璧主義があるのではないか。つまり、どちらかといえば外向きの、世の中の物事が完璧に動いていないと我慢できないという意味の「完璧主義」であって、これは前者と区別が必要だと思うのである。
これは、例えて言うと「そうじ好き」と「きれい好き」の違いのようなもので、前者はきれいに掃除するのが好きなのだが、後者は単にきれいな状態が好きなのである。これは似ているようで、実際一人の人の内に両方が兼ね備わっていたりもするが、しかし厳然として異なる性格を指している。若い人にはよくわからないかもしれないが、あなたが男性であれ女性であれ、結婚するならだんぜん前者で、これを見誤ってはならない。そして「理系の人は完璧主義であることが多い」という場合の完璧主義は、後者のほう、言っちゃなんだがあんまり結婚したくないほうの完璧主義が多いような気がすると私は言いたいのである。
他人の完璧が気になる完璧主義者の人生は不幸である。いや、当人は不幸ではないかもしれないが、周囲が不幸だ。考えてみれば、この世の中、そうそう完璧なものなどない。むしろ、人界に完璧な物事など存在しないと言ってもよく、そういう人が現実社会でなんとか生きて行こうとすると、やはり、完璧に動いていない物事は嫌いだ、完璧でないものなどこの世から無くなればいい、というふうな方向に考えがちである。欠点も含めて君が好きさ、というような優しい視点はここにはない。やはり、いっそのこと皆殺しにすべきだという気がする。
物騒なことばかり言ってそう考えていると思われたら大変だが、本質的にはごく近いことを考えているのかもしれない。最近、私は、他人のルール違反を見かけると瞬時に頭に血が上る、ということを発見した。ルールといってもたいしたものではない。自動車の運転なら、方向指示器を出さずに車線変更するとか、運転中携帯電話を使っているとか、駐停車禁止の道路に駐車しているとか、そういったことだ。これらは確かにどれも危険で、迷惑な行為だが、だからといって、私の感じる怒りを正当化するほどの迷惑をこうむったわけでは決してない。だからしてこれはきっと、完璧主義の血が吼えているのだろうと思う。うろおおん。うろろろおおおん。
ただ、完璧主義が他人にのみ向かうのではなく、上に書いた「そうじ好き」「自分に対する完璧主義」なら平和かというと、実はそうでもない。それどころかかえって、完璧主義は重荷になることのみ多いような気もするのだ。完璧な物事などない、自分だって完璧でない、という立場に立てば、完璧でなくてもいいので、まず手の届く範囲で、できるだけルールを守ったらええねんええねん、と考える人のほうが強靭である気がする。だいたい危機管理、ダメージコントロールというのはそういうことで、私なんかはよく、遅刻しそうになるといっそ学校(会社)なんて行かなくていいかと思いがちなのだが、そうではなく、本当はどんなに遅れたって少しでも行ったほうがよいのである。
そして、道路交通法に戻るが、これも「遅れるくらいなら休む」という精神が大いに問題になるのだった。だいたいにおいて、どういうわけか交通ルールは完璧に守れないようにできている。自動車の免許を取って、路上に出たまじめなドライバーが一様にショックを受けるのがここだ。まず、速度違反はどうしたってやってしまう。制限速度をがっちり守っていると、他人からすごく邪魔にされるのだ。現実として誰も守っていないので「流れに乗って運転していればオッケー」などという、完璧主義者にとっては許しがたい態度を強要される。制限速度を現実に即して緩めるかわりにたとえ1キロでもオーバーしたら検挙、というふうにしたらどうかと思うが、そうはなっていないのでうろおおんと吼えるわけである。
さらに困るのは自転車のことだ。自転車は、道路交通法上「軽車両」に分類され、公道を走る以上さまざまな規制がある。違反すると三ヶ月以下の懲役または五万円以下の罰金である。そうなのだが、ルールを仔細に読んで行くと、現実問題として納得のいかないものがある。一つには「自転車は歩行者ではなく『クルマ』なので、歩道ではなく車道を通る」というもので、わかるのだけれども、これは場合によっては、すごく危ない。三ヶ月以下の懲役に処せられても死ぬよりはましなので、ズルして歩道を通ることも多いのだが、これをズルと感じていること、可能な場合は車道を通るべきだと思っていること自体、私にとっては精神的に負担になっている。歩行者の邪魔にならないように気をつけたら、ええんとちがうんかなーと思うのだが、そういうふうにルールに融通性を持たせるということが、もうイヤだ。
そしてもう一つ。こっちのほうが深刻だが、「手信号」である。曲がるとき、止まるとき、発進するとき、自転車は運転者の手で周囲の他の人に合図をするということになっている。曲がるときはそっちに手を伸ばす。止まるときは斜め下に手を伸ばす。嘘のようだが本当だ。いや「嘘のようだが」という感想は嘘だ。知っている。確か小学校で習った。習ったのだが、ここで白状しよう。一度として、よろしいですか、三分の一世紀も生きた今までで、一度として、公道でこんなことをしたことはない。他人がしているのを見たこともないのでオアイコという気もするが、しかし、国家権力は、いついかなるときでも、私をこの「合図の義務違反」で捕まえることが可能なのではないだろうか。どうして国会ではこれを問題にしないのか。なにやっとるねん自民党。しっかりせんかい民主党。
と、結局は完璧主義が自分自身ではなく外の批判に向かうところが、完璧主義者としての私の本当にいけないところだと思うわけである。世の中、曖昧にして放っておくべき物事はある。それに、考えてみれば、本当に完璧主義を標榜するなら、こんな不完全な文章を偉そうに公表したりはできないはずではないか。ああ、本当にそうだ。どないしたらええねやろうか。まったくもって、それこれも含めて、恥かきばかりの人生なのである。うろおん。