冬来たりなば

 岩城直人は、自分にないものがあるとすれば、それは粘りだといつも思っている。「ないものがあるとすれば」とはナニゴトか、他方面では完全無欠なのかというと決してそうではないのだが、それを自ら認めるには、高校三年生はなにしろ若すぎる。とにかく、そういう若い直人の自己評価の中でさえ、自分には粘りがないとしているわけである。

 まったくおれは、と直人はよく思う。どうも、他人よりも精神的に疲弊しやすい気がする。数日あるいは数ヶ月といった長期間、一つのことに集中し完璧に仕上げてゆく、ということができない。直人が得意とするのは「決まった課題を短時間で済ませる」あるいは「決められた時間の中で最善を尽くす」という類の仕事だ。直人は理系クラスにいて成績も悪くはないが、これは必ずしも理系科目が全部得意だということではない。研究発表のような「仕上げもの」はやっぱり不得意なのだった。直人は苦々しく思い出す。学園祭でやった化学部のポスター展示、あれはいけなかった。思い出すだにあれはまずかった。

 そんなことを考えている直人がいるのは、三年五組の教室だ。二学期も十一月後半に入ろうとしている晩秋の教室は、授業のあと、ちょっとクラスの友人とだべっていただけで、あっという間にオレンジ色の夕日で満たされてゆく。部活動もないし、あとはまっすぐ家に帰るだけなのだが、このところ、よほど急いでも、直人が家に着く頃にはとっぷりと日暮れてしまう。早く帰らなければという焦りを多少感じるのは、これも「粘りのなさ」のせいだろうか。あまりのオレンジ色に少し目を奪われた直人は、しばらくぼうっと沈む夕日を見ていた。

「ほんま、日が短こなったなあ」
 同じように夕日を見ていたクラスの仲間、原町良樹が、直人に向けてそう言った。原町は高校も二年生になってから家族と一緒にこちらに越してきた男で、その前は関西にいたと聞いている。同じような境遇だからか、直人があまり親しい付き合いもしなかった三年五組で、数少ない友人の一人と言える男だった。
「ああ、そうだな、五時には真っ暗だから」
 直人はさしたる考えもなく、そう答える。
「いやほんま、おれには考えられんわ」
「何がだよ」
 振り向いた直人の視線をそらすように、原町は窓の外、どこか遠くを見ている。
「いや、こんな早う暗なるのはな」
 ああ、そうか。原町は関西の基準で言っているのだった。確かに、西のほうに行くほど、日は遅く昇り、遅く沈む。しかし、まさか外国ではあるまいし。
「嘘つけよ、そんな違わんだろ」
「いやいや」原町は首を振る。「ほんまに三〇分は違うと思う」
「そうなのか」
「その代わり、冬は朝が明るうてええけどな」
 直人は考え込んだ。今まで気にしたこともなかったが、二四時間が三六〇度だから、一時間は経度にすると一五度だ。三〇分は七・五度。地球一周が四万キロだから赤道では経度一度が約百キロに相当する。だから時差三〇分は八百キロくらいだ。ただ、日本は北緯三五度くらいだから、それよりは短くなって、ええと。

「三〇分ってことはないか。ええと、計算できるぞ」
 暗算を諦めて、鞄の中から紙とシャープペンシルを取り出そうとする。
「あ、ちょい待ち。これがあるんや」
と、原町が机の中から取り出してきたのは、何年か前の理科年表だった。実は直人も一冊持っているが、さすがに学校には置いていない。理系クラスだな、と直人は思った。
「ええと、十一月一七日の『各地の日出入』。神戸は、一六時五四分やな。それに対して水戸はと、ほいさ、一六時二九分日の入り」
「なるほど」
「まあ、三〇分ちぅことはないな。でも、二五分か」
と原町は分厚くて小さな理科年表のそのページをしっかり指で押さえて、直人に差し出した。受け取って、ページを覗き込む。理科年表の「暦」のパートには、びっしりと数字が書いてあって、見ているだけで楽しくなってくる。
「そうだな。そういうことみたいだ」
 一日が長いというのは、どういう気持ちだろう。冬だけではない。季節によらず、毎日約三〇分、日暮れが遅いわけだ。考えてみると、これはたいへんな違いかもしれない。日本の東西で、それぞれ子供たちが暗くなるまで外で遊んで育つとして、大きくなるまで毎日半時間ずつ、遊ぶ時間に長短が存在しつづけるのだ。他の条件が同じでも、相当、違った人間に育つのではないか。たとえば、野球がうまいとか。たとえば、もう少し精神に粘りがあるとか。

「なあ原町、おまえ粘りがあるほうだと思うか」
 唐突な直人の質問に、原町はきょとんとする。
「自分でか」
「ああ」
「いやあ、納豆喰っとるやつには、かなわんなあ」
「そんなことは、ないだろ」
と直人は笑った。

「なあ原町、これ見てわかったんだけど、あと、冬至まであんまり日は短くならないんだな」
「ん、どれどれ」
 原町もページを覗く。なるほど、このあと、十一月二七日、十二月七日、一七日、二七日と、水戸の日入時間は数分しか変わらない。一六時二四分、二三分、二五分、三〇分だ。
「今とせいぜい五、六分しか変わらないみたいだ」
 年表が古いので、これは二〇〇一年の表だが、このへんの事情は、今年もそんなに変わらないだろう。
「冬至やなしに、十二月七日くらいに底を打つんやな。なんでやろ。水戸やからか」
「いやそんなことはないと思うけど」
 納豆を食べているからでもないと思う。
「なんでやろ」
「なんでかなあ」
 直人も調子を合わせて考え込む。本当に、なぜだろう。見ると日の出は一月半ばくらいがもっとも遅くなっているようだが、日の入りの早さは、確かに、十二月の初めでもうピークに達してしまうのだった。冬至(十二月下旬)頃は、むしろ今よりも日の入りがわずかに遅い。いろいろ理由はあるのだろうが、直人には見当もつかない。

「冬か、嫌やな。ここの冬は寒いもんなあ」
 原町がそう、しみじみと言う。関西に比べると、やはり北関東は寒いらしい。原町にとっては二度目の冬だが、一度でたくさん、というところなのだろう。原町は関西の大学を志望していると聞いた。寒いからかもしれない。あるいは納豆のせいかも。
「まあ、あれやな」
 直人が何も言えないでいると、原町は言葉を継いだ。
「これからすぐ日の入りがピークになって、その後冬至が来て昼の短さがピークになって」
 原町は理科年表をぱたんととじて、机にしまった。
「その後日の出がピークになって、それからやっと、気温の低さがピークになると」
「うん」
「そう思たら、日の入りだけは早や春に向かって動き出すわけか。まあええか、春の始まりやと、そう思とこうや」
 そういうものかもしれない。直人は思った。そしておれたちの「春」はその後、大学受験が終わってからだ。粘りと、長期的な計画力に欠ける直人は、受験までの短そうで長い冬の期間、どうやって過ごせばいいのかまだ現実的には考えていなかったが、原町に言われてみると、春はもうすぐだという気もする。この日の入りが、すっかり回復して、春分になるころには、すべて終わっている。不思議だがそのはずだ。

「帰ろか。暗うなってきたわ」
 原町が窓の外を指して言う。なるほど日は沈み果て、明るい星がいくつも見えかけている。直人は答えの代わりに鞄をかかえ、立ち上がった。あれは金星だろうか。


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