トーマスは蒸気機関車である。作品の知名度に反してあまり知られていないが、大きな蒸気機関車ではない。それどころか、本来は操車場で客車や貨車の付け替えを担当する、おそらくもっとも小型に属する機関車だ。車輪の数も六つ(三対)しかない。船舶でいうと客船や貨物船ではなくタグボートのような、車両でいえば長距離トラックやバスではなく、フォークリフトのような役目を果たすものだと考えればいいだろうか。
「機関車の仕事」として普通に思い描くような、貨車や客車を引いて比較的遠くまで旅をするのは、もっと大型の機関車の仕事だ。小型の機関車であるトーマスの職場は主に駅の中で、駅間を移動するのはリリーフ的な、例外的な任務になる。しかし、だからといって別にどうということはない。トーマスはまじめに仕事をしていた。よく働く、役に立つ機関車であることに誇りを感じているからである。
ところがあるとき、トーマスの仕事に転機が訪れた。仲間の列車ジェームズが脱線し、そのときに駆けつけた功績をたたえられる形で、支線を一本、トーマスの担当として与えられたのだ。常磐線に対する鹿島臨海鉄道大洗鹿島線とか、茨城交通那珂湊線とか、今すごくローカルなことを書いた気がするが、そういうイメージだと思う。「与えられた」のだから、たぶんこの路線はトーマス専用になったに違いない。これまでの、他の列車の手伝い的な仕事とはがらりと変わって、客車を引き、乗客を乗せて支線を旅する日々が始まったわけだ。
たった二両の客車を引くだけのローカル線に過ぎないとしても、トーマスは誇らしかった。引っ張る客車には、アニーとクララベルという名前が付けられていて、アニーは純粋な客車、クララベルには貨物も載せられる構造になっている貨客車である。アニーとクララベルは、塗装がはげていたりして決して新しい客車ではないのだが、トーマスはそんなことには構わない。駅の仲間達と別れるのは少し寂しいが、三人で歌を歌いながら、誇らしげに支線を往復しているのである。
以上が「機関車トーマス」の物語のさわりだが、なんというべきか、いい話だと思う。性能にぬきんでたところはなくとも、まじめに仕事をし、他人から必要とされ、その結果として責任ある地位を任される、というストーリーには、涙が出てきそうになる。テレビで放映している模型アニメの「機関車トーマス」の声は、アンパンマンと同じ戸田恵子で、やんちゃな子供、といった印象をなんとなく受けるのだが、トーマスの基本属性は「まじめで仕事が好きな若者」なのである。
仕事は大切である。すべてを仕事に捧げてそれのみに価値観を置くような人生はどうかと思うが、それはそれとして、他人に自分の価値を認められる、というのは、ほとんど人生の目的に値する何かだと思う。考えてみると、我々はみんな、他人に必要とされたくって仕事をし、子供を生み育て、ウェブ上にいろんなことを書いたりするのではないか。そしてそれは、多くの場合趣味よりも仕事から得られるのである。「お金をもらう」というのが大切な一つの評価だからだと思う。
そういう意味で、お金持ちでも、そのお金が大部分不労所得であるような、たとえば宝くじに当たったり、あるいは莫大な親の遺産が手に入ったものだったり、投機的な株の売り買いで短期間に得た利益だったり、極端な場合非合法に手に入れたものだったり、そういうお金を、ただ消費して生活するような人生は、実は思ったほど楽しくないのではないかと思うのである。いや、よく、一種の負け惜しみとして、屋台でラーメンなどを食べながら「大富豪にはこういう楽しみはあるまい」というふうに言うことはあるわけだが、上の観点においては、かけねなし、真実そうなのではないか。このお金が今ここにあるのは自分への評価としてではない、と考えるのはとても悲しいことだ。
昔、上岡龍太郎が笑福亭鶴瓶に「暑いのと寒いのとどちらが好きか」ということを尋ねられて、「暑いのも寒いのも嫌で、体の中がぽっと熱くて、それを涼しい風で冷ましてもらうのが好きだ」というようなこたえを返したことがある。質問の意図からしてこの答えはどうなのかとは思うが、上の問題とこれは同じことだ、と考えられなくはない。つまり、人は自らを評価するときに、今持っているものではなく、自分が「次に稼ぐことができるお金」で判断するところが大きいのではないか。寒いとき、厚着をしたりストーブに当たったりできるのはよいことだが、鍛えた体によって、このくらいの寒さは平気だ、と言えるほうが、どんなによいことか。
そういえば、不労所得ということでは一等の、ギャンブルのような場合でも、ふつう、プレーヤーはその場を自分がコントロールしている、と信じたがるものだ。人がギャンブルに手を出すのは楽してお金を手に入れたいからだ、という捉え方は必ずしも正しくはない。それが証拠に、誰かに賭け金を預けてあとは寝て待つ、そういうプレイヤーにとって楽な種類のものが好まれるわけではないのだ。だからこそ、おそらくはスロットマシンは自分でボタンを押して回転を止めるようにできており、ルーレットはいろいろな賭け方ができるように工夫されているのだろう(「1/2」と倍数が書いてあるところに賭けるのではなくて、赤、黒、奇数、偶数、大数、小数というふうに賭け方がいろいろある)。勝つにせよ負けるにせよ、それは運だけではない、自分の腕だ、と信じたいのだと思う。
普通、宝くじは自分で番号が選べない。だから、この手の「コントロールしている感覚」はぐっと少なくて、当たったとしてもそこに自分の能力によるものだという感覚はほとんど得られないと思う。だから、他のギャンブルに比べ、宝くじには楽しみが少なくて、どうしてみんな宝くじを好んで買うのか不思議だ、と言うこともできるのだが、考えてみれば、それでも人々は、売り場を選んだり、買い方を選んだり、発表まで家の西の隅に黄色い箱に入れておくなどという「工夫」をしている。人間は、そうやって「自分が偉かった理由」を探さずにはいられないものではないか。
と、しかし。ここまで書いてきて気がついたが、ということは、もしある人の人生が、労せずして得られたお金を消費するばかりの、額に汗するところなどまったくない人生だったとして、それでも人間はなんとか「自分が偉かった理由」を考えついて、結局人生は充実した物になる、ということなのだろうか。株の売買なら、本当はまったく偶然だったとしても、あのタイミングで果断に飛び込んだ俺は偉い、と思えるだろうし、薮で拾った一億円で暮らしていたとしても、あの薮をあのときのぞいた俺はさすがだった、と思えるだろうし。
なんだかわからない。まあ、確かに、結局、人生の自己評価は、自分次第である。子供には、仕事で成功して他人に認められてもらうことの美徳か、他人の評価なんてどうでもよいと考えられる自立性か、どちらを教えればよいのだろうか。真実は一つではないかもしれないが、トーマスは答えの一つを体現して、今日も支線を往復している。楽しげに歌いながら。