本を買って、その奥付、著者名とか発行者名が書いてあるページを見ると、かならず「乱丁・落丁はお取替えします」ということが書いてある。……というのは真実ではない。たいていそう書いてあると思ったのだが、手元にある本をいくつか当たってみたところ、この記述が見当たらないものも、けっこう多いようだ。もちろん、交換に応じるむね謳ってないからといって、まさか乱丁落丁ほったらかし、誠にお手数ですがお近くの書店でもう一冊お買い上げください、というようなことはないと思う。申し出ればなんとかしてはもらえるのだろうが、もしかしたら、出版社に在庫を持たない方針で交換に応じられないような場合が、あるのかもしれないと思ったりもする。
私は、実際には今まで一度だけ、買った本に乱丁落丁があって取り替えてもらったことがある。新潮文庫の、北杜夫「夜と霧の隅で」だったと思う。途中の何章かが抜けていて、代わりに同じページが二度繰り返して挿入されていた(余談だが、こういう場合、言葉として「乱丁」と「落丁」のどちらなのだろう。乱れているし、落ちてもいる。わからないが、煩雑なので以下「乱丁」と書くことにする)。ページの重複などすぐ気が付いてもよさそうなものだが、読んでいるとなかなか異常には気づかず、事態を把握するまで、かなり奇妙で珍しい体験をさせてもらったことを覚えている。あとで出版社に郵便で送って、新しいものに交換してもらった。
さて、こういう場合、ちょっと気になるのが、交換してもらうのがよいかどうか、という問題である。しかり、不良品なのだから製造者の責任を追及し、交換してもらうのが当たり前の態度である。ただ、これはもう、心のありようとしてはたいへんいやらしく、大声ではとても言えなくてここに書くのだが、疑念があるのだ。ぶっちゃけた話、あれだ。乱丁本というのは希少価値があるのではないか。切手やコインがそうであるように、珍しいエラー本として好事家の間でたいへんな価値があり、高値で取り引きされているのではないか。私の送ったエラー本を転売して、新潮社のしかるべき地位にある人間がまさか大儲けをしているのではあるまいか。よく知らないが最近はヤオフクさんという奇特な方がいて、なんでも買ってもらえると聞いた事がある。
中途半端なボケを放置して先に進むが、私が乱丁に出会ったのは、上の一回きりである。私はそれほどたくさん本を買うほうではなくて、まんがまで入れても、平均して年百冊ほどだから、率としては二千から三千分の一ということになる。電化製品などでは、初期不良に出会うことはそんなに珍しいことではないので、工業製品としての単行本は、品質管理という面ではなかなかなのものだと思える。そして、珍しいということは、やはりそれなりに価値があるのではないかと思ったりもするのだ。おお中古の神よヤオフクよ、私はたいへんもったいないことをしたのではないだろうか。
出版物の品質管理ということで言えば、孤立して発生する乱丁の類ではなく、また誤植のようなささいなエラーでもなくて、内容に問題があって全冊数を回収する、というようなものなら、思い当たる例がいくつかある。比較的よく知られているのではないかと思うのは、以前「週刊少年ジャンプ」において、掲載されているまんがの中に無神経な表現があって、回収が発表されたという、そんなことがあった。確か集英社に送り返すとボールペンかなにかがもらえたのではないかと思うのだが、このとき「送り返さないで持っていればあとで高値で売れる」と思った人はどのくらいいただろう。私がそう思ったくらいだから決して少なくはなかったはずで、そのためかえって一般家庭における保管数は前後の号と比べ多くなっているのではないかと想像したりする。
しかし、冷静になって考えてみると、私の「夜と霧の隅で」はどうだろう。少年ジャンプの例では、送り返してしまうとその号に載っていたまんがは読み返せなくなるので、どうしても欲しいと思う人があとで出てくるかもしれない(ほとんどは単行本になるだろうが、特に問題のまんがは、あとから読むのは難しいだろう)。ということは、欲しい人、買う人は確かにいるだろうと思う。ところが、私の新潮文庫は、興味を持つファンが少ないという事情をさておくとしても、そういう魅力はないのだ。つまり、他では絶対に読めない、珍しいページが入っているわけではないのである。誤りのない本に比べて、情報量で言えば少なくなっているだけだ。
同じエラーでも、コインや切手のエラーには、独特の魅力があることは否定できない。ふだん見慣れたコインなのに、明らかに異なる様相を呈しているわけで、「他では滅多に見られない光景」というものが見られる。これには確かに魅力があって、価値がそういうところに立脚しているというのは素直に納得できる。そして、この意味においても、ページが文章の途中で裁ちきってあるような本ならまだしも、やはり乱丁本は、置いておいても価値はなかったかなと思うのである。それに、ヤオフクさんに売るにせよ、魅力をデジタルカメラ画像で紹介するのは難しそうだ。
などと、昔の自分の決断を嘆いたり弁護したりしていてもしかたがないことだが、一つ言えることは、エラーが価値をもつためには、そのエラーが陳腐なものであればあるほど、それだけ希少なものでなければならない、ということだろう。以前、私が使っていたノートパソコンは、晩年スクリーン関係のチップがなにかいかれていたらしく、画面が突然シマシマになったり、スクリーン上の文字が流星のように流れ去ったり、相当珍しい光景をいくつも見ることができたが、こんなものに価値がないことは、私にだってわかる。乱丁本はまだこちらの範疇に入ると思うが、その後一度も見かけないことを思うと、もしかしたら今見つけるとある程度の価値はあるかもしれない。
だから、今、家電製品を作っている人は、がんばって品質を上げ、故障など天地がひっくりかえっても起こらないようなものを作らなければならない。見つけた故障がエラーコインなみの珍しさであるような製品を作れば、すべてがよいほうに転がってゆくのである。故障に気が付いた人も、希少価値を信じてメーカーに修理や交換を依頼しなくなるし、まかりまちがってメーカーに送り返されてきたエラー品を、担当者としてこっそりヤオフクさんに転売し巨利をむさぼることもできるのだ。いいかげんなことを書くようだが、技術立国日本としては、まずそういったあたりを目標にしてがんばってゆけばよいのではないかと、私は年頭にあたって言いたいのであります。