以前ここで触れたことがある気がする「首都大学東京」は、名前としてやっぱり変だと今でも思うのだけれども、仲間であるらしい「新銀行東京」ができて、正直に生きていれば必ず報われる、理解者は現れる、ということを我々に教えてくれた。まったく人生は油断ならない。
とはいえ、他人の決断、この場合は「命名」という後戻りのできない決断を、ヨコから馬鹿にして笑うのはたやすいのだ。他人が考えた名前にケチをつけ、ではお前はどうか、お前の考えた名前にはそれほどの魅力があるのかと問われたら、いやまあそのえへへぇとその場をごまかしつつ家に帰り、すでに眠っている娘と息子をそっと抱きしめつつ、ごめんなごめんなお前達はお父さんがバカだからそんな名前になっちまって、と一人泣くよりほかに何もできはしない。しかしその上で、神をも恐れぬことを書くならば、それでもやっぱりちょっとそれはどうか、という名前は世の中にある。あると思わないですか皆様。
何か例を挙げることを求められている気がするので、しかたなく挙げるが、「三菱東京UFJ銀行」がそうだ。なんだかまた東京だが、それから「セブン&アイ・ホールディングス」というのもある。特にこちらは、近所のセブンイレブンの看板がぜんぶ「セブン&アイ・ホールディングス」にかけかわって、なにかえもいわれぬ不安を覚える。
そもそも、なんとかなんとかホールディングスというのは持ち株会社持ち株会社した名前で、いや、今ムチャな表現を使ったが、子会社を統括する司令部として機能するだけの形式的な会社の名前に思える。我々はモチカブさんから直接おにぎりなりアイスクリームなりを買うのではない、ないよね、ないんじゃないのかなー、と思うのだ。たぶん単に、統一ロゴが採用されて使われるようになり、たまたまそのロゴに「SEVEN&i HOLDINGS」とデザインされているがための違和感ではないかとも思うのだけれども、そういうことに使うならホールディングスは別にいらないと思うのだがどうなのか。あと「ねんきん事業機構」もこれでよいのか。
などと事のついでに政治的なことを書くと人間として底が浅いのがすぐにバレるので、慌てて口をぬぐって他の方面に転進する。最近もう一つ気になるのが、比較的新しい言葉だと思うのだが「ロハス」である。ロハスというのは、どうだろう。どんなものでありましょうか。
ロハス、LOHASというのは、「Lifestyles Of Health And Sustainability」の略称だそうである。健康で、しかも持続可能なライフスタイル、ということで、特にsustainable(持続可能な)というのは、つまり生活レベルを極端に下げるのでもなく、限りある資源を無駄に消費することもなく子々孫々までよろしくコレを続けてゆこうではないか、というような意味になる。よいことだと思うが、これに「ロハス」という名前を与えるというのは、よいことだろうか。
運動の内容は、まずはどうでもよろしい。問題は名前である。なにしろロハだが、ロハでよいのか。ロハっすか、ロハっすよ。ロハっすねえ。どうも、安っぽい、いやむしろ無料の感じがするわけだ。縦書きにすると只スだがそれでよいか。
えーと、ロハロハと、今私は「ロハス」という大人な生活習慣、運動に対して非常に子供っぽい批判をしようとしているわけだが、そのなんだ、この運動を大衆に根付かせ子供たちに緑の地球を受け継がせるという大目的のためには、このようなプリミティブな批判がかえって大切ではないか。違うか諸君。と、肩の力が抜けたところで、後半部のハスも気になるといえば気になる。はすっぱな感じがする。
もちろん、もともと日本で使おうと思ってつけた名前ではない(と思う)のでしかたがないのだが、輸入にあたってこのままでよいと思う、その心根はどうか。「健康で持続可能」を略してケンジーとかそういう、いや対案を示すとまたしても私という人間の底の浅さを喧伝することになるが、こういうのでは他に、美容関係のブランドかなにかに「オバジ」というのがあって、人の名前らしいが、オバでかつジイで美容でアンチエイジングなのだ。どいつもこいつも、そんなことで日本でやっていけるのか、と思うのである。
だいたい、ロハスという運動自体、まかり間違えば他人に反感を買いかねない運動である。これははっきりとそうで、どこか、口うるさい母親的な、禁欲的で付き合いの悪い感じを受ける。なにしろ、この前、入ったラーメン屋さんで置いてあった週刊誌を見ていたら、ある殺人犯(容疑者)の母が「ロハス」である、という記事があった。ほほうロハスか。なるほど道理でロハスか、と思って読んだわけだが、落ち着いてみればロハスとあまり関係ない。容疑者のしつけが非常に厳しかった、女の子を近づけずゲームもテレビも禁止だった云々というもので、それはどうもロハスとは違うのではないかと思う。強いて言えばおやつはイリコだったとかそういう部分だが、イリコを食べても偉くなった人はいくらでもいる。
思わずイリコを弁護してしまったが、私が言いたいのは、ロハスという運動は反感を買いがちであり、ロハスという短い言葉にその周辺の人々や行動みんなを集約するようになると、このようにあまりよろしくないことになるぞ、ということかもしれない。各自、自らの信じるところに従って地道に暮らしていればそれでよろしいのであり、アイマイモコと、何にも名前がない状態が一番よろしいのかもしれない。などと、今回全体的に高所からものを言っていて私はよろしくないのだが、あのそのアレです。言うだけはロハなので、言ってみました。