ナノを考える

 先年、アップルが「アイポッドナノ」という製品を発表した。ヒットしている携帯音楽プレイヤー「アイポッド」のバリエーションに連なる新製品だが、これに対し、おそらく一万人を超える関西人が、なんでやねん、と心の中でツッコミをいれたはずである。いや関西は特に関係ないのだが、アイポッドがあって、アイポッドミニがあって、アイポッドシャッフルというのもあった。そこでアイポッドナノだが、なんでここへきて「ナノ」なのか、これが今ひとつはっきりしない。どこがどうナノであるのか、責任者は消費者に対し説明する義務があるのではないか。

 と、これ以上踏み込む前に「ナノ」についてひとこと言っておく必要がある。この「ナノ」という言葉、普通に書いてもシャレになりそうで、しかもそれがくっだらないダジャレで、こんな駄洒落を書き飛ばしたりしたら、ここの文章に対する私の姿勢そのものが問われかねないというほどのものである。しかし、あまりにもナノは短くシャレ親和性が高い。ほとんどどう書いてもシャレになってしまうので、シャレに陥らないように書くのにたいへんな苦労が伴う。疲れてしようがないのだが、三十歳を過ぎた成人男子のおよそ三割が発病するとされる不治の病、駄洒落病に簡単に負けてはならぬ。せめて全力で抵抗せねばなるまい。

 とはいえ、ナノ。まったく、どこかに「ナノえもん」等というキャラクターがいて、語尾にかならず「ナノ」をつけてしゃべる、というようなことがあっても何らおかしくない。つまりこれは「ぼくは回転焼が好きナノ」というあれだ。

 なにがあれだかわからないので、ナノえもんはさておくが、ナノというのは、当然「ナノメートル(10の9乗分の1メートルを表す長さの単位)」のナノだろう。ナノテクとか、ナノマシンというような単語を意識して使われているのかもしれないが、これらももともとはナノメートル単位のテクノロジーとかそういう言葉なので、どっちゃでも同じことだ。アイポッドナノがどういうふうにナノであるか、という疑問は根本的な問題として残されているわけだが、それ以前に「ナノメートル」を略してナノというのはどうか、それでは軒を貸して母屋を取られる的なことになるのではないかと、私は危惧しているのである。

 論点を明確にしよう。たとえば「キロ」だ。日常においてキロと言った場合、これにはいろんな意味が考えられる。キロメートルであることもあるし、キログラムであることもある。毎時キロメートルである場合も多いと思われる。キロバイトや毎秒キロビットだったりするかもしれない。これらはすべて文脈によって判断するしかないが、言ってしまえば、これはそう略するのが間違っているのである。「駅までは1キロの道のり」と言ったときに、1キロメートルだったらまあよいが、実は1キロパーセクだったら命に関わるではないか。

 そんなことはありえないと思うが、要するに本来、ナノだけではこれが何であるのか、よくわからないというべきなのである。そもそも、SI単位系のルールを厳密に解釈すれば、ナノにはべつに「小さい」という意味はなくて、単位の前にくっつけて、10のマイナス9乗、という意味があるだけである。いや、確かにナノメートルもナノグラムもナノ秒も小さいが、ではナノヘルツはどうか。ナノ年とかナノトンというのも考えられる。

 大西がいま馬鹿なことを言った。そうなのだが、我慢して付き合っていただくと、ナノヘルツというのは1秒間に10の9乗分の1回振動するということなので、つまり約三十年に一回振動するということである。土星の公転周期がだいたいそんな感じだ。ナノ年やナノトンは、これはええと、年もトンもSI基本単位ではないのでインチキくさいが、それぞれ30ミリ秒、1ミリグラムに相当する。どうだい、でっかいナノだってあるじゃないか。

 わかった。よしわかった。ここは譲ろう。よかろうナノは小さい。常識的な意味において小さい。しかし、小さいといっても、ナノメートルから連想される小ささとはかなり異なる小ささでもって、ナノという単位が出てくる場合があるということは覚えておいてもよい。

 これは、たとえば体積に対して使用した場合である。これもSI単位ではないが「リットル」というのはどうか。1リットルは、よくある牛乳パックの体積だが、千立方センチメートル、つまり1辺10センチの立方体の体積に等しい。1リットルの千分の1の体積のことを「ミリリットル」というが、これは1辺1センチの立方体の体積に等しく、つまり1立方センチということである。

 ここで注意されたいのは「体積が千分の1になっても一辺の長さは十分の1にしかならない」ということである。体積は一辺の長さの三乗に比例するからだが、ここで接頭辞の大安売りが起こる。1マイクロリットルは、すっごく少ないようだが、実は1辺1ミリメートルの立方体で、そのへんのシャープペンシルのかけらのほうが体積が小さい。そして1ナノリットルは、一辺十分の一ミリメートルである。これはだいたい髪の毛の太さくらいの寸法である。鋏で髪の毛の端をちょんちょん、と切ると、1ナノリットルくらいの容積の髪の毛(のきれっぱし)が容易に得られることになる。つまりナノテク。街の散髪屋さんは、実はナノテク企業だったのである。

 だめだよ君これはSI単位じゃないじゃないか、と私の良心が騒いでいる。大丈夫ちゃあんと対案は用意してあるのだ。質量単位であるグラムだ。実は質量についても、体積と同様、長さの三乗で効いてくるので、まったく同様の議論でもって、ナノグラムは意外に重いのである。比重1の、水とだいたい同じ物質を考えると、1ナノグラムの質量を持つ立方体の一辺の長さは、10マイクロメートルである。

 私にはわかっている。いまさらアップルに何と言おうとも、アイポッドナノはアイポッドナノだろう。ナノテクを標榜する他の会社の他の製品についても同じことで、ナノという言葉を使うのをやめたり、ましてや「ナノメートルテクノロジー」等のぼちょい言葉で我慢するということはあるまい。では我々にできることは何もないのか。そうではない。我々は問いつづけることができるはずである。いや、問いつづけねばならない。ナノテクというがそれはナノ何なのか、そして何ナノなのかと。と、本当に問いつづけるべきは私の文章に対する姿勢かもしれないという疑問が頭をもたげるオチナノである。


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