このように三人目の子も無事生まれてしまっては、もはや「子育てほのぼの雑文サイト」以外の何ものでもない大西科学である。毎日「こんなことをしていてよいのか」と「ああっ、でも子供は可愛いよう」の間で心は揺れ動いているわけだが、こうして小さい子供とつきあっていても、得るものはある。たとえば、公園の遊具の変遷、というのはどうか。
「遊具」という言葉自体、子育てに縁がない人にはなじみがないかもしれない。「遊具」は本来、字義通りには遊びに使う道具すべてが含まれてしまう言葉だと思うが、この文章では、そして子育て中のお父さんお母さんたちの多くにとっては、単に遊具と言った場合、公園にある、滑り台とかブランコとか、そういう据え付けになった施設のことを指すと思われる。なわとびの縄のようなものはそう呼ばないし、遊園地のジェットコースターのような有料のものはまた別に考えている気がするのだ。例文をどうぞ。
「あの公園は図書館もあっていいんだけど、遊具がないから子供は喜ばないのよねえ」
「子供を遊具で遊ばせている間に、お母さん仲間と親睦を深めた」
「遊具ではほとんど遊ばないで、走り回ってばっかりだったよ」
ますます「子育てほのぼの雑文サイト」である。さてこの遊具について、時代により変遷があるのは確かだ。まずもって、新しいアイデアでもって作り出され、加わったものがある。名前はわからないが「鉛直に立てた棒の周りに螺旋状の鉄棒が固定されてあって、螺旋状の棒に沿って周囲をくるくる回りながら滑り降りる滑り棒」というのがたとえばそうだ。最近よく見かけるのだが、見た目からは遊び方がわからなくて、小学生くらいのよその子が目の前で滑ってみせるまで、私には皆目見当もつかなかった。今も誤解している可能性があるが、ためしに自分でもやってみると回りながら滑り降りるのがおそろしく楽しかったので、たぶん合っていると思う。
一方、それとは別に、なんらかの理由で消えてしまう遊具、新しい公園には決して建設されない遊具もやはりある。たとえば「箱ブランコ」という、二つの座席が短い床でつながっていて向かい合って揺らすタイプのブランコがあって、これは少し前にひどく危険な遊具であるということになったので、実際まったく見かけない。二人が向かい合ってぎっこんばったんする「シーソー」も、あまり見かけない遊具だ。シーソーにどういう危険があるのか(あるいは危ないのかどうかすら)よく知らないのだが、おおむね、可動部があると、やはり安全性において難があるということになるのかもしれない(※)。
近所の公園に、そんな「最近あまり見かけない遊具」の一つがある。直径二メートルくらいの球形のジャングルジムで、鉛直の中央軸の周りに固定され、軸を中心に自由に回転するようになっている。地軸が傾けてない地球儀の格好である。登って遊んだり、回転させてぐるぐる感を楽しんだりする。これも正式な名前を知らないが、私にとっては非常に古い記憶に直結する遊具で、これをあまり見かけないのは悲しいことだ。
といっても、一つでもあるのだからそれでよいようなものだが、自分の子供を乗せて回してみると、これが重いのである。けっこう力を込めないと回ってくれない。こんなものだったかなとも思うのだが、よく考えてみるとそんなはずはない。昔、子供だった私が軽々と回せていたのである。今目の前にあるこれは、大の大人(私)がふうふう言うくらい重いし、手を放すとすぐ止まってしまう。回してやると子供が喜ぶので回してやりたいのだが、ぐるぐるふうふう回していると、なんだかこんな刑罰がなかったかなあ、と思えてくる。「北斗の拳」あたりに同様のシーンがあったような気がする。巨大な、ギーガーがデザインした石臼みたいなもの(たぶん発電機)の周囲に棒がたくさん突き出ていて、それを大勢の人間がぐるぐる回して発電するのである。通例に従い、ぐるぐる回っている不運な人々の後ろでは筋肉質で軍服姿の怖い兄ちゃんたちが見張っていて、サボると容赦なく鞭を振るってくる。
人力発電は、元来あまり効率のよいことではない。地球温暖化防止のために人間が本来もつ力を利用し、具体的にはオフィスの机一つずつにハンドルやペダルを用意し、手回しや足踏みで発電してエアコン等を駆動する、というのは誰もが考える発想だと思うのだが、まず、そうして起こせる電力は、たかが知れているのだ。一説によると人間の仕事率は150ワットくらいだそうだが、これはたぶん直接重いものを持ち上げたりするために発揮される仕事率であって、発電される電力ではない(発電効率というものがある)。しかもこれを長期間続けるというのはできない相談だろう。なにしろ150Wといえば、30キログラム重の力に抗して毎秒50センチも棒なりなんなりを押しつづける必要があるのだ。また、現代人の一日あたりの消費カロリーは2000kcalとされていて、これは約2.3キロワット・アワーに相当する。一時間あたりに均すと100ワット弱。エネルギー保存則に反しないためには、とてもたくさん食べる必要がある。
もう一つ、これは誤解されがちなのだが、発電においてトルク(軸を回転させる力のこと)というのはあまり必要ない。昔の、粉を挽いたり水をくみ上げたりするための風車は、大きな羽根がゆっくらゆっくら動いていたが、今発電用に使われている風車は、細い羽がひゅんひゅん回転している。発電に使う場合、必要なのはトルク(力)ではなくむしろエネルギー(力×移動距離)なので、羽根を軽くして、そのぶん回転速度を速くしたほうが効率がよいそうである。
たぶん同じことが、人力発電用の設備にも言える。精一杯力を込めてやっと回転可能なように作って回す人を疲れさせるよりは、軽くするかわりにスピードをある程度速く、また長時間続けられるようにしたほうがよいと思われる。ギア比を切り替えられる変速装置つきの自転車があるように、人間がもっとも大きなエネルギーを出力できる速度というものがあって、それは決して「ゆっくりでいいので死に物狂いの力を出した状態」ではないのである。「軽々と、しかしものすごいスピードで」でもなく、その中間のどこかだと思うが、自転車に乗った感じでは、そこそこのスピードで足を動かす状態を維持するのがベストに思える。だから、上の北斗の拳のような「人間を使って発電」ということを、もし現代的にやろうとすると、おそらくスポーツクラブのエアロバイクがいっぱい並んでいるような形になるのではないか。すごく健康そうであるが、いちおう鞭を持った兄ちゃんは用意してある。
さて、しかるにこの球形ジャングルジムは、どちらかといえば北斗の拳に近い遊具なのだった。市の陰謀で実はこの遊具の地下に発電機が仕込まれていて市長室の照明に活用されている、などということはありそうにないので、これは外に対して有効な仕事をまったくしておらず、ただ回転しているだけだと思われる。私のカロリーは、このきぃきぃいう音と軸の摩擦熱に変換されまくっているわけで、いや、決して「貴重なカロリー」ではないが、なんだかたいへん疲れるのである。どうも、管理者である行政も、壊れたら修理するまでもなく、取り壊せばよろしかろうという態度で臨んでおり、メンテナンスがおろそかになっているような気がしてならない。私の背骨を救うため、油を差してやって欲しいのである。