だめな生命

 私の中学のときの技術家庭科の先生は、大小さまざまな波紋を私の青春の上に投げかけた方で、二十年経ってもいろいろ思い出すことがある。個々のエピソードに関して私の評価は正負両方向あり、一概に言えないのだが、思い出し、考えることがいろいろあるということは、これはつまり、それだけよい先生だったということになるのだろう。

 私の中学では、技術科の授業は本校舎の離れにある技術教室で行われていた。ふだん使う机の代わりに、木工用の大きなテーブルに数人ずつかたまって座って授業を受けていたのだが、あるとき、何人かの悪童(という言葉が中学生に使えるかどうかはわからないが)が、手に持っていた彫刻刀だかノミだかで、授業中、この机を削っていたことが判明した。どうしてそういうことをするのか、そういうことをして何か得があるのかというと、これはもう青春の過ちというか、中学生男子というのはそういうものだと言うしかないが、とにかくそれを見つけた先生の叱り方が面白かった。「君らにはそれを元通りにする技術があるのか」というのである。

 これは、技術科という教科がまさに、こういったテーブルを元通りにする技術を教えていることと、いささかの関係があるかもしれない。とはいえ、ものの考え方として「自分が元通りにできないようなことをしてはいけない」という教訓は、一つの判断基準として持っていてもよいと思ったものである。それ以来私が常にこの文句を頭に置き、取り返しのつかないことは決してしないようにしてこれまでやってきたかというと、そんなことはないのだが。

 ただ逆に、哀れ巨大な穴を掘り抜かれてしまったテーブルを、その友人が元通りにする方法を知っていたとして、またそうする意思も時間もあったとして、ではそういうことはいくらでもやっていいのか、穴あけ放題か、と考えると、それはそれで難しい問題である。

 たとえば、どこか南の方の、あまり人の手が入っていない島を探検していた人が、珍しい鳥類を見つけたとする。これまで発見されていなかった新種で、その人はこのことを学会で発表するとともに、観察から得た事実、この鳥類が絶滅の危機に瀕しており、手厚い保護を必要とすることを報告する。こういう場合、どう考えるべきだろう。

 この鳥は、こういう鳥が地球上にいるということを人類があと数十年知らなかったとしたら、知らないままで終わっていただろう鳥である。これが人間のせいで滅びつつあるのであれば、たとえば大は戦争から小は煙草のポイ捨てまでさまざまあると思うが、その結果鳥が滅びつつあるとしたら道義的に申し訳ないことのようにも思うが、とりあえず直接の因果関係はなくて、ただ自然の摂理に従って滅びつつある感じがする。夕立に降られて傘がないのも地球温暖化のせいでひいては人間のせいだ、と言い出す人はいるので「人間は関係ない」とはなかなか言い切れないものだが、とりあえず仮の話としてそうだったとする。この場合、それでも人類はいくらかの資源を割いて、この鳥を救うべきだろうか。

 救うべきだ、と私は思う。常識的な範囲の出費(これがどれほどかというのも議論の余地があるが)に収まるのであれば、絶滅から救うべきだと大抵の人が考えると思う。これは、一つには上の「元通りにする技術があるのか」という点に立脚しているのではないか。まだ人類は、ゼロから鳥のような複雑な生命を作り出す技術はない。それどころか、かつて地球上に存在していた動物(たとえば氷結したマンモス)を遺伝子情報を基に甦らせる技術もない。後者はあと一息で実現しそうな気もするのだが、とりあえず今はない。そうすると、どんな種でも、一旦見殺しにすると後悔してもどうにもならない。取り返しのつかないことにならないうちに、保存するにしくはないと考えられるのである。

 それはそれでよい。問題は、実際に人類が上のような技術を手に入れたとき、このへんの倫理観はどうなるのかということである。というのも私には、この先将来にわたって、我々が失われた種族をふたたび生み出す力を絶対に手に入れられないとは、どうも思えないのである。楽観的に過ぎると思われる方がいらっしゃるかもしれないが「ジュラシックパーク」みたいなことは、少なくとも最近滅んだ動物に限っては、きっとできるようになる。トキが生産ラインからがんがん生み出される日がやってこないはずはないと、思うのである(トキにそれなりに商業的価値があれば)。そうした動物を「人工のもの」「自然のもの」と分けたり、そして「天然物じゃないと生命じゃない」と言い出したりといったことを、我々はきっとするとは思うけれども、それはそれとして、回復できる技術を手に入れたならば、ある程度、滅ぼすことも許されるということになるのではないだろうか。

 主人公の少年がいつもかぶっている帽子は、彼の母親が、父親と離婚して去ってゆく前に、唯一彼のために買ってくれた帽子である。その、いいかげんなところはあったけれども優しかった母の思い出がたくさん詰まった帽子を、級友の、いけすかない、しかし家が金持ちのいじめっ子が、あるとき悪意から取り上げ、踏みつけ、鋏で切り刻んだりマジックで「肉」とかなんとか落書きしたり、その他ことごとしく書かないがなんかいろいろと取り返しのつかないことをする。激昂した主人公に対して、ほらよ、といじめっ子が何枚かの紙幣を投げつけ、これで代わりを買やいいじゃん、とかそういうことを言う。「回復する技術があればやっていい」というのはだいたいそういうことである。

 しかし、思うのだ。最悪なのは、そのいじめっ子が貧乏で、帽子を賠償するお金は(まして主人公を慰謝するお金など)どこを探してもない、という場合ではないだろうか。技術の進歩は、人間の愚行を、せいぜい交通事故の加害者レベルまで回復してくれる。しかもこの加害者は、自賠責だけでなく任意保険までしっかり入っていて、さらに言えばそれは専任の担当者が事故解決までしっかりサポートしてくれるやつなのである。これは、保険にも入らず、ただ「事故を起こさないように注意しましょうね」と声を掛け合いながら運転しているだけの状態より、ずっとよい。そして我々人類には存在としてどこか中学生男子のようなところがあるので、だからして私は思う。それゆえにこそ、科学技術の進歩にはうんと投資しなければならないのである。


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