人生のゲームバランス

「地球温暖化のせいですかね」
と私が言ったときには、今から思うとだいぶ余裕があった。私は先輩と二人、大雨の降る中、バス停の小さな屋根の下に閉じ込められていた。
「おいおい大西、すごいね」
と先輩がつぶやく。私がすごいのではない。すごいのは空模様だ。出張先の会社を出てすぐ、ぱたぱたと落ち始めた雨が、バス停にたどり着いた直後、音を立てて降り始め、気がつけば大雨と言っていい状態になっていた。午後のまだ早い時間なのに空は真っ暗だ。空が一瞬光ったと思うと、どかん、という音がする。雷だった。ひゃ、と先輩が小さく悲鳴をあげる。
「おっ、とっとっ」
 ざあっ、と雨がひときわ激しさを増し、私はそんなことを言って、地面に置いていたリュックを持ち上げ、背負い直す。この鞄には出張に使った非常に重い装置が入っていて、どれくらい重いかと言うと四歳になる私の娘と同じくらいの重さなので、できれば背負いたくない。だが、地面に置いておくと、流れてきた雨水に濡れてしまいそうなのでしかたがないのだ。
「いかんね、かなりいかん」
と、空を見ながら先輩。この先輩と、出張で、雨で、乗り物を待つ。あ、前にもこんなことあったな、と私は唐突に思った。確か三年くらい前のことだ。あのときと同じですね、と言おうとして、それでは恋人同士の会話みたいだと思い直した。私は、もう一つ、別の感想を考え付いて、そっちのほうを言うことにした。
「なんか『となりのトトロ』にこんなシーンありましたよね」
 バス停、大雨とどしゃ降りと重い荷物、というあたりだが、先輩はこれには何とも答えず、スーツのスカートの足元を気にしている。

 私は職場の先輩と二人で、得意先への出張から帰るところだった。出る時間はある程度選べたのだから、なにもこんなにわか雨の時間に出ることはなかったのだが、出てくるときには「ぐずぐずしていると雨になる」と思っていたのだ。「ぐずぐずしていると雨になる」ということは「ぐずぐずしなければ雨に遭わない」という予想であるわけだが、事実として、ぐずぐずしなかったのにこういうことになっている。実に運が悪い。その上、荷物が重くて肩が痛い。重い荷物を私に任せて、先輩は身軽な書類鞄一つだった。うらやましい。
「傘、出したほうがいいかもしれないですね」
と、私。ああそうだよね、と先輩は言って、鞄から小さな折り畳み傘を広げた。私は、背中から丁寧にリュックを下ろし、折り畳み傘を出して、またリュックをしょってから、傘を広げるという、そういう文章にしてもイライラするようなことを辛抱強くやって、やっとバス停の下、傘を広げた。バス停に屋根は一応あるのだが、大雨で、かつ風も少しあるので、傘を広げておくほうがよい。

「そういえば、煙草吸われてましたよね」
と私は先輩に聞く。突然に思えるかもしれないが、つまり、前回同じシチュエーションになったとき、この人とその話をしたのだ。三年も経ってから蒸し返すような話ではないが。
「うん、でも、やめた」
「へえ、あれはやめれるもんですか」
 私は思う。もし私がいったん煙草を吸い始めたとしたら、絶対に止められないと。私はそれくらい意思が弱く、自分を律するということについて問題を抱えている人間なのである。そんな気がする。
「簡単じゃないよ」
「でしょうね」
「でも誰でもできるよ」
「どっちなんですか」
「いや、ゴメン。そういう歌があるんだ」
 先輩は傘の下でふんふふふふん、と鼻歌を歌った。

 雨音はますます激しさを増している。私はすこし大きな声で聞いた。
「それはやっぱり、あれですか。増税があったからですか」
 この七月から煙草にかけられている税金が増えて、街で売っている煙草の値段が数十円上がった。ニュースで街の愛煙家へのインタビューで、増税を機に煙草を止めますか、止めませんか、やめない場合は何円になったら煙草を止めますか、というような質問をしているところを見た。「五百円になったらやめます」と答えている人がいたが、これは非常にいけない答えではないかと思った。それを見た政府が、煙草が四九〇円になるまで増税するのではないか。
「いやもっと前。二年くらい前かな」
「へえ、気がつきませんでした」
 この先輩とは、同じ職場で働いているのだが、ある人が煙草を吸っている、ということは知っていても、ある人が煙草を吸わない、というのはなかなか気がつきにくい。喫煙所によく行く人なら、その人が喫煙所で見かけなくなった、ということでわかるのだろうが、私は煙草を吸わないのである。
「ほら、子供ができたから」
「あっ、そうでしたね」
 忘れていた。この先輩は、この三年の間に、結婚して、子供を産んで、産休期間を経て、職場復帰したのだった。どうして忘れていたのだろう。職場で使う姓は変わっていないし、スタイルなんかも三年前とあんまり変わっていないように見えるせいかもしれない。
「すいませんでした、お子さん何ヶ月ですか」
「えーとね、もうすぐ一歳二ヶ月」
「なるほど」
「大西のとこは?三人だっけ」
「そうです。女男男。一番下は四ヶ月ですよ」
「可愛いよね」
「可愛いです」
 私は一歳二ヶ月というと、どのくらいだっけな、しゃべってたっけ、歩いてたっけ、と思い出そうとしていた。ここ数年のうちに、既に二人が我が家で「一歳二ヶ月」を通過しているというのに、記憶がぼんやりとして、思い出せなかった。それで私はこういうことを言った。
「やっぱり、医者に言われるわけですか、妊娠すると煙草を止めなさいって」
「んー、まあね」
「それでやめられるんですねえ」
 私はこの先輩が、吸っていたときにはかなりのヘビースモーカーだったということを知っていた。
「いや、なんか面倒になっちゃってね」
「え、へえ」

 しばらくの雨音。私はバス停の時刻表を見て、腕時計を見る。三時四二分。次のバスの時間は既に過ぎているが、まだバスは来る様子がない。バス停の下、傘を広げて私と先輩が立っている。屋根が雨の大部分を防いでくれているが、そのぶんの雨水が、屋根の端から滝のように流れ落ちて私達の足元にしぶきを跳ね飛ばしていた。私は沈黙を破って、思いつきを口にした。
「よく思うんですけどね」
「うん?」
「人生のゲームバランス、ということがあるんじゃないかと思うんです」
「ゲームバランスって、なに」
 先輩は聞き返す。
「テレビゲームの用語です。ゲームって、難しすぎても簡単すぎてもつまんないじゃないですか」
「ああ」
 先輩は傘の下で、うなずく。
「そういうもんだろうね」
 ゲームやらないからわからないけど、と先輩。私も長いことやってません、とかなんとか、私は答える。
「要するに、バランスを調整して出すわけです。楽しめるように、テストプレイのあと、メーカーが、敵の強さや数を調整したりして」
「ずるい話みたいだね」
「そんなことないと思いますよ。で、話はこれからなんですが」
「バス、遅いなあ」
「遅いですね」
 私はまた時計を見る。四四分。四分遅れ。バスの時間ではこれは遅れているうちには入らないと思うが、なにしろこの天候だ。いや、この天候だからこそ、時刻通り来いというのは酷というものだろうか。私は、さっきの続きを話した。
「ええと、ゲームバランスですが、人生においてもそれが言えるんじゃないかと。人は、自分でバランスを調整するわけですよ」
「ほう」
「子供を持つと、何か捨てなきゃいけません。いや、捨てないといけないわけでもないんでしょうが、捨てたほうが人生が楽になって、それでゲームバランスを回復するわけです。私は、テレビゲームを捨てました。先輩は」
「煙草を捨てたわけだ。確かにね。おむつとか、子供のいろいろを持っていると、この上に煙草道具持ち歩きたくないなと思うから」
「ええ、ええ」

 雨は、激しくはなっていないが、小降りにもならない。私はバス会社に電話をかけて、ちゃんとバスは運行しているのか聞こうとして、携帯電話を取り出す。そう思っただけで、ダイヤルする前に、先輩が私に話し掛けてきた。
「そうすると、どうかな」
「はい?」
 私は、開いた電話をまた閉じる。
「少子化というのは、それじゃないかと思うんだな。つまり、世間が複雑になってきたので、子供の数でもって、人生のバランスを回復していると」
「あ、ええ、それです。私もそれが」
 言いたかったような気がします、と私は続けた。
「人生は複雑だからね。確かに、子供を産んで、複雑になったなあ、人生」
「そうでしょうねえ」
と私。本当のところは、結局私は男なのでわからないところがあるが、多くなった荷物から煙草を削るように、私が出張の重い鞄から、折りたたみ傘の代わりにモバイルギアを削ったように、現代においては子供が削られているのかもしれない。大変になった仕事や、勝者がすべてを取るビジネスのルールや、あるいは面白いテレビ番組やインターネットや、もしかしたらゲームの代わりに。

 雨は変わらず降っている。この出張のゲームバランスは、難しくなる一方だった。
「しかし、そうすると」
 先輩が言った。
「なんでしょうか」
「きみは三人だろ」
「子供ですね。そうです」
「相当、仕事で楽してるんだなあ」
「あっ」
「うらやましいなあ。もっと仕事、やってもらおうかなあ」
「いやその、ええと、そうだ。電話します」
 私は先輩に見えるように、電話をあからさまに取り出して、バス会社の番号にかけた。考えてみると、こうすることで、バス会社の担当者の人生が少し難しいものになっているわけだ。電話で事情を聞きつつも、もしかして、少子化対策のためには、遅れたバスに、あんまり目くじら立てたりしないほうがよいのではないかと、私は少し思った。


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