銀河帝国の眺望

 ワープアウトを警告する合成音声のあと、わずかな振動があって、跳躍船《アンドゥリル》は通常空間へと実体化を完了した。
 窓の外を占めていた亜空間の灰色に代わり、大宇宙の暗黒を背景にした一面の星空が戻ってくる。エーテルレーダーから目を上げた操縦士は、まず放熱のため放射板を展開すると、慣性制御システムを用いて船体をゆっくりと回転させた。やがて船橋の窓からも大きく惑星の姿が見えるようになった。眼前の赤い星は両極のあたりが白く凍り付いているほかは、ところどころに細筆で刷いたような薄い雲が浮かんでいるだけで、この惑星の名前《サハラ》の由来を、衛星軌道上からでも窺い知ることができる。惑星の夜の部分には、砂漠に点在する都市の明かりと、それを結ぶハイウェイの細い光の川が見える。やがて、エーテル通信機から惑星政府が発する、識別符号の照会と歓迎の挨拶が流れてきた。

 などという話が、今、よくあるのかないのかわからないが、最近思うのは、とにかくSFなんだSFでゆくんだ、という外部的な要請が何もないとして、テキストエディタの真っ白なウィンドウを前に、ではこれからここにどんな小説を書こうかという、そういう立場に立ってみるとき、はたしてこの話を「恒星間宇宙船といろいろな惑星」という枠組みで書く意味があるのかということである。

 世代的なものがあるかもしれないが、私はずっと宇宙を舞台にした物語に親しんでいた。銀河系内のさまざまな惑星に人類が移住した世界(ないし時代)の話、恒星間を簡単に移動できる宇宙船を駆る主人公達が、訪れた星でさまざまな事件に遭遇するというものである。おそらく「スタートレック」とか「スターウォーズ」があったからこそこういう話が一般的になったのだろうと思うが、今考えてみるとどうだろう。これはたとえば「水戸黄門が諸国を漫遊する」というのと、どのくらい異なった話なのだろうか。

 実際問題として、舞台として「船と港」「自動車と街」ではなく「宇宙船と惑星」を選ぶ意味はなくはない。一つにはさまざまな、極端な自然環境を導入することができる。酸素が薄くてボンベが必要だったり、いつも砂嵐が吹き荒れているような環境を持ってくるのも容易である。異星人や異星動物も想像力の及ぶ限り自由にもって来れる。シリーズ物の場合は利点はもっとはっきりして、いやらしい話だが、極寒の惑星の話の次に酷暑の惑星を持ってきても違和感はないし、あとくされがないので、一つの話で惑星がまるごと滅ぶようなストーリー展開にしても、次の話に影響が及ばない。ただ、それもこれもなんだか消極的な、作る側が楽をしようという理由に思えるし、言ってしまえば水戸黄門でやってやれないことはないのである。西遊記もそうだし、まんがで言うと「ワンピース」がまさにこれだ。

 これは非常に残念なことであるが、舞台が宿場町一つから惑星に拡大したのに対し、主人公が同じ人数の人間で変化ない、ということからくる、やむを得ない事情があるとも言える。たとえば、軌道上の恒星間宇宙船から地上に降りた船員を迎えるのは、宿場町に腰を落ち着けた黄門さまご一行に出会う人々と、結局は同じような人数である。小説だから、あるいはテレビドラマだから描写や制作上の都合でそうなっているのだ、というみもふたもない考え方もある。しかし、よく考えてみると、実際に我々がどこかに遊びに行き、そこで出会う人の数は、ドラマに登場する俳優さんの数に比べて極端に多いということはない。そしてそれは、訪れたのがどれくらい大きな社会かということに、あまり左右されないのではないか。

 たとえば中国に行ったとする。中国には十億をはるかに越える数の人間が生活しているわけだが、こんなものは統計上の数字であり、実際問題として、そこを旅行する個人にとってはほとんど意味がない数値かもしれない。中国に行って、よほどあちこち見て回っても、出会い、会話をして、旅行者の目からそこで人々が何をしているかを見て取れる、という意味では、そこにいるのは「十三億の中国人」ではなく「数百人の中国人」ではないだろうか。同じことは「惑星エンドアにおける数百人のイウォーク」でも「会津若松市における数百人の会津っぽ」でも変わらない。

 違うところがあるとすれば、それはサンプリングの偏りの大きさかもしれない。例えば世論調査がそうだが、あるグループから何人かサンプルをとって、そのサンプルでもって全体を代表させたい場合がある。国勢調査のように全員を対象にすれば問題ないのだが、実際にはそんな大規模な調査を毎回行うのは無理だ。そこで、少数をサンプルとして抽出し、このサンプルをして全体を代表させるわけだが、このとき重要なのが、グループ内で偏りが生じないようにすることである。世論調査でよく行われているのは、電話番号をランダムに発生して電話をかけ、そこにいる人に聞く、という方法だが、ここには「固定電話を持っている人」「調査の行われた時間に家にいる人」という偏りがすでに生じている。これらは内閣支持率とたぶん影響しないだろうと思われているので、調査としてある程度信頼されている(と思う)わけだが、偏りには違いない。

「数百人の中国人」が持つ問題はここにある。ある町の人、ある国の人、ある惑星の人、とスケールが大きくなるに連れて、旅行者が出会える人の数は変わらないのに、サンプルの偏りはどんどん大きくなることが予想される。中国の例では、結局出会えるのは限られた地域の、例えば「北京の数百人」でしかないだろう。同じことは「会津の数百人」についても言えるのだが、その偏りの度合いは中国ほどではない。会津を端から端まで歩くのは中国についてそれをやるより簡単で、そのぶん個人で出会った人が実際に全体を代表している確率が高くなるからだ。つまり、町、地域、国家とスケールが大きくなるに連れ、「どういう人が住んでいるか」というイメージを、個人では把握しにくくなってゆくのである。

 今、あえて宇宙船と惑星を舞台にして小説を書くような場合、そのへんの差を描けるような書き方ができればいいのではないかと思う。会津若松にはいろんな人がいる。しかし、中国にはもっといろんな人がいる。惑星サハラにはもっともっといろんな人がいるに違いない。逆に、そういう描写ができないのであれば、たとえば惑星サハラ出身といえば背が低くて髭を伸ばしていて武器は戦斧を好む、と決まっているような、会津若松よりもずっと一様なステロタイプで代表して描いてしまうのであれば、それは筆者がもっと勉強すべきということになるのではないかと思う。そのへんをなんとかするために、とりあえず、中国を旅行してみるというのはどうだろう。


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