夢見たのは伝説の武器

 少し前「伝説の武器史観」という話を書いたことがある。よくある「滅んだ古代文明の生み出した云々」という話、今作れる最高の武器よりもそのへんの貝塚から掘り出してきた剣のほうが強い、という物語の枠組みについて述べた。これを敷衍するとなんでも未来より過去の方が偉いという「二酸化炭素排出量を減らすために昔の人の智恵を生かす」とか「素材の味を生かした料理が最高」というものの考え方になるが、これに対してお前らそんなんでええのかと警鐘を鳴らすものである。これ自体私の重箱の隅をつつく小姑体質をいかんなく発揮した指摘であると私自身に高い評価を得ているが、最近、伝説の武器にもう一つ異なる側面があることに気がついた。「こんなこともあろうかと」である。

 たとえば「王様の騎士が百人乗っても大丈夫だった暴竜ナバーモノーキを、十歳くらいの少年が愛と勇気と伝説の名剣ガンバレバーの力で見事一刀両断したので痛快」という物語があったとする。ナバーモノーキはたいへん丈夫な竜で、日頃威張っている王様もその騎士団もおかかえの魔術師もぜんぜん役に立たないので、そこがまず痛快である。しかも、今の技術ではもはや作れない武器ガンバレバーは持ち主の勇気を力に変える剣で、製造工程において余計なことを一切していないので切れ味はたいへんすっきりしている。ここまでは上で述べた「伝説の武器史観」の枠内から一歩も出ていないが、つまりこの物語にはもう一つ「昔の人が勇者の血を引く少年のために用意してくれた武器が今こそ役に立った」という要素があると言いたい。昔の人にとっては、ガンバレバーは当面使う予定がない、いわば使うアテもないのに作った核兵器みたいなものなのだが、それでも先を見通す力を持った賢い古代文明によって「こんなこともあろうかと」用意されていたのである。

 私がこの魅力について語る初めての人間ではないと思うが、確かに「こんなこともあろうかと」には魅力がある。上の古代人は死んでいるので「剣を作ってくれてありがとう」と感謝されることは通常ないが、生きて栄誉を受けられるならそれに越したことはない。パーティになぜかずっといる刀鍛冶であるあなたは、この際だから王様の騎士が七割くらい死ぬまで黙っていて、それから背中に隠し持っていた剣を取り出すのがよかろう。仲間がいっぱい死んで落ち込む主人公に、実はこんな剣を作ってみた、というのである。名づけて名剣ガンバレバー。一粒の勇気を竜の健康によくない化学物質に変えて、倒せ暴竜ナバーモノーキ。その剣の威力に人々は瞠目する。目の前の問題を根性と筋力と不可思議な奇跡によって解決してきた主人公達も、クールでクレバーな脇役が急に光を放ち始めたことに驚くことだろう。もはやあなたは自己完結的な技術バカではない。未来を見通す鋭い目と当代最高の技術を兼ね備えた救国の英雄の一人である。これはもう、技術者として最高の瞬間と言っても決して過言ではない。こんなこともあろうかと武器を用意してきてよかった。なあに、もし必要ないようだったらそのままずっと隠し持っていればよいのだ。

 以上はまったく架空の話だが、思えばみんな「それなら俺が持ってるぜ」と言いたくて、ポケットに関数電卓や巻尺や十徳ナイフやソーイングセットを入れて歩いているのではないだろうか。いい年をして、大きなリュックを背負って通勤している人の鞄の中には、きっと「当座いらないがいざというときに出てくると格好いいモノ」がわんさと入っているに違いない。第一私がそうだ。しかし、物語ならぬ現実の悲しさ「こんなこともあろうかと」を実践するのは、決して簡単なことではない。無駄な荷物をいっぱい持ち運ぶことになって重すぎるリュックは肩に食い込む。伝説の武器を作れと言われても、具体的にどうすればいいのかわからない。せめてお金をと、子孫にいざというときのための資金を残したくても、そのためにはまず自分がお金を稼ぎ、それを使わないでとっておかなければならないのである。古代人になるのも楽ではない。しかし、ここに実践した男がいる。時は大正時代。場所は今の宮城県白石市。そこに、伝説の武器を作ろうとした男がいるのだ。

 河北新報(かほくしんぽう)という、仙台を本拠とし東北地方で発行されている新聞があると思われたい。私がなぜこれを知っているかというと、ヤフーニュースの「地域」のところで記事を読めるからなのだが、ダイジェスト版だけからの判断とはいえ、いつもかなり読みごたえのある、しっかりした調査に基づく記事が載っていて、こういう新聞社があるとはやっぱり百万都市は違うと感心している。これに、今年の7月13日付で載っていた情報である。

 記事によると、大正15年のことである。当時白石町といった、その町の町長は考えた。仮に十分な元手があって、その利子でもって町の財政を補えるとしたら、町民から毎年町が徴収している税金を安くし、もしかして無税とすることも可能ではないかと。確かに、そのお金は今ここにはない。しかし、それも、今あるお金を貯金し、しかもそれを使わないでずっと利子で増やしてゆくことができれば、いつか手に入ることになるのではあるまいかと。

 なにか、非常にSF的な発想であると言える。この発想を本当に実践して、しかも実は今なおこの貯金を受け継いでいるというところが、東北地方の本当に懐の深いところである。私のような関西の人間には気候風土からしてそういう粘り強いことはできないという気がするのだが、この人はやった。菅野円蔵さんという方なのだが、貯金し、203年もの間絶対に引き出さない条件で、自らの財から百円を町に寄付したのである。百円というのは、当時の米価が米60キロあたり12円70銭、という情報があったので、およそ500キロぶん、8俵くらいということになる。例の「米百俵」よりは少ないが、なかなかぽんと寄付できるお金ではない。

 大正15年というのは昭和元年と同じ年で、1926年ということなので、それから203年というと2129年ということになる。元本100円を5%の複利で計算すると、2129年には200万円あまり。これが利息年5%で生む利子収入は毎年10万円となって、当時の町の財政規模とほぼ同じになる(※)。この計算には利子の変動や町の財政規模など、不確定要素がいろいろあるので「200年保管せよ」でもよかったろうと思うが、これを203年とするのが、非常になんというか理系的で好ましい。

 ただ、惜しいのは、この発想は、結論から言えば実現不可能だったということで、たぶん原理的に無理なのではないかと思う。それは、もしどの町もどの会社もどの個人もこれをやったら誰も働かずに生きて行けることになるがそれはどう考えても変な話だからで、どこかの町一つだけならあり得なくはないとは思うものの、実際にそう思う人がたくさんいるだろうことを考えると、やはり難しそうだ。具体的には利子をインフレーション率が上回ることになるのではないかという気がする。事実、この試みがどうなったかというと、途中に戦争が挟まったりしてえらいことになったこともあり、実験開始から80年、今このお金は3535円に増えているそうである。この間の平均利率は4.56%でかなりいいセン行っていると思うが、ブランド米だと10kg分くらいの値段になってしまった。

 菅野氏が考えた「伝説の武器」は機能しなかった。しかし、こうした後代役立つ武器を作り、そのへんに埋めておく習性は、理系であればみな多かれ少なかれ持っている気がするので、こうした発想を大切にする態度こそ、我々が養っておくべき資質かもしれない。なにしろ、たまには本当に役に立つ「こんなことがあろうかと」もないとは限らないのである。これは、貯蓄の大切さなどより、よほど大切な教訓ではないかと思うのである。


※ もとの河北新報の記事ではこれを当時の利率という5.04%を用いて計算しているが、これはおそらく、5%で計算するほうが正しく意図を伝えている気がする。というのも、利率5%で計算すると100円は203年でちょうど200万円を越えるからだ。5.04%では216万円くらいになって、あまり美しくない。
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