科学の基礎は測定である

 インターロックと呼ぶとちょっと違ったものになるのかもしれないが、焼成したレンガかタイルのようなものを敷き詰めて作られた歩道がよくある。正方形や六角形を使って平面を埋める、数学の問題なんかになったりするアレである。舗装材だから、アスファルトのような、実用一辺倒のものかというとそうでもなくて、並べ方にパターンを作ったりして、そういう遊び心を発揮してある場合が多い。

 たとえば、一辺三十センチくらいの正方形を基礎として、この形のタイルで歩道を敷き詰めるとする。このとき、真っ白とか真っ黒とか、一色で敷き詰めてしまう方法がまずある。なんだかんだ言ってこのタイプが一番多いような気がするが、次に多いのが二色の板が混ざっている歩道である。パターンが出てくるのはここからだ。白と黒の二色のタイルを使うとして、これを作為なくランダムに敷くという方法もあるはずだが、そうはあんまりされていない。なにか一定のパターンに沿って敷き詰めてあることが多い気がするのだ。それも、単純な市松模様よりも、3枚おきとか4枚おきとか、そういう配置になっている。対角線で分割した直角二等辺三角形のものを持ってきて、もっと複雑な模様にしてあるところもよく見かける。公共の場所の、壁や屋根はそんなふうにデザインしてあることはあまりないので、どうして道路だけそんなことになるのか、考えてみるとちょっと変だ。

 変だとして、それがどうしたのか、何かいけない点でもあるのかというと、いや、ぶっちゃけた話、いけなくはないのだが、こうしてデザインされた歩道を歩いていると、どうもこのパターンに引きずり込まれてしまうのである。歩きながら今日こそはそんなことはしないぞと頭では思っているのに、気がつくとすぐ、たとえば白ばっかり踏んで歩いている自分に気がつく。特に自然な歩幅に近い間隔でパターンが作られているときが危ない。白白白白と歩いてゆく自分がいるのだ。黒いところはマグマで、踏んだら死ぬ、というふうに考えて歩いているわけではないのだが、現象的にはそうしている。あ、それ小学生のときにおれもやってたよ、と言って下さる方は多かろうと思うのだが、私はもう三十代のおっさんである。おっさんなのに、白いところばっかり選んで踏んで歩いているというのは、そうとういけないことのような気がするのだ。私の家の近所の歩道を造ったのが市なのか県なのか、市としてもどこの部署なのかよくわからないが、道路にパターンをつくるときは、歩幅とぴったり同じか、でなければかけ離れた模様にしていただきたい。たいへん歩きにくいのである。

 などと偏執的なことを書いていて本当にそういう人だと思われては困るが、この問題はある意味で、タイルに白と黒があるから起ってしまうのではないかと思う。いやべつに白と黒でなくてもよい、見た目ではっきり区別できる、二種類のものからできているからよくないのだ。互いに境界がはっきりしていると「白ばかり踏む」などという決意が芽生えやすい。これがもっとあいまいな、たとえば明度ゼロパーセントから百パーセントまで十六階調に分かれた十六種類のパネルがあり、それらがだいたい等分に使われて全体で複雑なパターンを形作っているとしたらどうだろう。私の頭のどこかにあって子供っぽいこと一切を引き受けている「子供脳」という器官が、この十六色タイル地帯に踏み込んだとして「白っぽいところばっかり踏む」というふうに決めたとしても、どこからが白っぽいタイルで、どこからが黒っぽいタイルなのか、歩いてゆくうちにどんどん曖昧になってゆくと思われる。結局は面倒くさくなって、普通に歩くようになって、子供脳は大いに悔しがるわけだが、実はそれこそが立派な大人のとるべき態度なのである。建設にコストがかさむが、そうしてはいただけまいか。

 ここでいったん話題が変わる。今日から秋の交通安全運動が始まっている。今回の交通安全運動に際しては、直前になって、ある大きな、悲惨な事故が起こってしまった、ということもあり、とりわけ飲酒運転が大きな問題になっている。報道等でも、新たに起こった飲酒運転の事例を取り上げては、運転手の自覚というようなことが批判の対象とされているわけだが、非常にプラグマティックで冷淡なものの味方だとは思うものの、実用的な意味において、今はちょっと特殊な時期であると言える。というのは、普段よりも一層飲酒運転に対する目が厳しく、さしたる事例でなくても(というのは、人命にかかわるような大きな事故を起こしたわけではなくても)全国に報道されてしまうような時期なのだ。そのことが良いか悪いかは別にして、そして上のような考え方はどちらにしても「汚い考え方」に属すると自分でも思うが、事実としてはそうであることは認めざるを得ない。

 そして、飲酒運転というのは、避けようと思えば確かにドライバーの心がけ次第で避けられる物事であり、その点、ただの事故とは全く違う。つまり「いつもはやってるけど今だけはやめとこう」というような、さじ加減が効きやすい違反であると言うことができるのだ。ところが、それなのにどうしてか、よりにもよってこの時期に、飲酒運転をしてしまう人がいる。確かにいるのだ。これは疑問に思ってしかるべき事実ではないか。特に警戒すべき時期に、うかうかと飲酒して運転する人がいる。これはたいへん奇妙なことだ。

 これについて、私には一つ考えがある。酒に甘い文化的な傾向、罰則の緩さや自覚の不足、地方の交通事情など、さまざまに伝えられている他の要因はすべて間違いで、私が言うのが唯一正しい原因であるというつもりはない。ただ、一つの原因として、上には飲酒運転、もっと言えば飲酒というもののあいまいさがあると思うのだが、どうだろう。

 おかしなことを言うようだが、人は「酔っている」と「酔っていない」の二通りの状態しかないわけではない。生まれてから今まで一滴のアルコールも口にしたことがない、という人だっているわけで、そういう人を一方の極端として、他方、誰が見たってぐでんぐでんになっていて運転に関係なくアルコール自体で命があぶない昏睡状態まで、なめらかに境界なく続いている一連の状態があるだけで、どこから先が「酔っている」なのかは、実は判然としない。どこからが、車を運転したら飲酒運転になる「酔っている」という状態なのか。もちろん厳しい人は「一滴でも飲んだら運転しては駄目」と言うだろうが、それは現実的ではないし、第一実行不可能だ。

 ずいぶん乱暴なことを書いている、と思われたかもしれない。しかし、たとえばコップからほんの一口、乾杯のときのお印程度になめるようにビールを口にしただけで、もう自動車は運転しては駄目だろうか(あるいは、ブランデーで味付けしたケーキでは?)。よろしい、ここは厳しく、駄目だとしよう。一滴でも駄目な物は駄目だ。では、そういうわずかな飲酒(というかなめ酒)をして、それから五時間経ったがこれではまだ駄目か。では六時間ではどうか。七時間では。このように考えてゆくと、どこまでを非としどこからを是とするか、明確な線引きは思ったよりずっと難しい。

要するに程度問題なのである。シビアに考えて行くと、ある量の飲酒のあと、運転前にどれだけの時間を置くべきかというのは、アルコールの量により人により、また体調により、はたまた待機中に運動をしたかしなかったか、酒以外のものをどれだけ飲食したか、まだあるだろうが、そういった諸条件が細かく絡み合って、実際のところは本人でさえもよくわからないものに思える。毎日車を運転しなければならない人が、絶対に飲酒運転をしないようにするには、もうこれは酒を断つしかないのではないか。飲んでから運転するまでどれだけ待てばよいのか、ルールは「飲んだら運転しては駄目」というが、これは一滴でも飲んだら永久に運転しては駄目という意味ではないのだ。

 歩道の話から、どうして酒の話になったのか。つまり、飲酒運転とは白と黒しかない歩道ではなく、十六階調のパネルが引いてある歩道に似ている、と言いたいのである。白と黒しかない歩道では、白だけを歩けというルールは明快だ。だが、十六階調の歩道で「黒っぽいパネルはアウト」とするとどうなるかというと、とたんにこれが守りにくく、破りやすいルールに思えてきてしまうのである。最初は真っ白なものだけ選んで歩いていても、やがて少しずつ黒っぽいのまで踏むようになってきて、ついにはすべてがいい加減になってしまいそうな、そういう予感がする。特に、真っ白なパネルがあんまりない場合そうだ。

 幸いにして納得のゆく方法はある。あると思う。いつの日もこうした複雑な問題に抜本的な解決策を与えてきたのは科学の力である。これには「自分の酔っ払い度が自分ではわからない」という問題が、元凶となっているわけで、それを客観的に測定する尺度があればよいのだ。たとえば、呼気中のアルコール濃度を測って、それが一定値以上なら車のエンジンがかからない装置、というものが現実に存在している。この装置に関しては、たぶん、これも飲酒運転のやっかいな一面である「飲酒を意志の力で抑えられない人がいる」ということから来ている、常習者に対する罰則的な装置として考えられたものだと思うが、依存症に陥っていない、普通の人にはそこまで行かなくてよいはずだ。自分でどのくらい酔っているのか、今運転しては危ないのか、簡易に測定できる装置があればよい。

 もちろん、呼気中のアルコール濃度が一番よい尺度なのかどうかには議論もあろう。呼気のアルコール濃度と反応速度の低下の間にも、個人差などの誤差要因はあるに決まっている。しかしまあ、それを言えば、視力だってしらふのときの反射神経だって、あるいは音楽がどれだけ好きで運転中にラジオを触る癖があるかどうかだって個人差はある。ここはえいやと呼気中のアルコール濃度のような数値で管理することに決めて、それをどこかで線引きして、しかもその線を低めに引いておけば、かなりの場合で、飲酒運転は防げるのではないかと思うのである。というより、そういう装置が普通のドライバーに与えられて初めて、飲酒運転はモラルの問題だと胸を張って言えるのではないか。少なくとも、酒を飲んでからずいぶん経ったのでもう大丈夫だと思ったとか、ちょっとしか飲んでないので自分は酔っぱらってないと思っていたという言い訳だけは、これからはできなくなる。科学技術といえどもすべての問題に答えを出すことなどできない、というのは承知のうえで、飲酒運転の問題には、安価なアルコール検知器の普及が一定の効果を発揮するように、私には思えるのである。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][△次を読む