これを読んでいるあなたの目の前には、まず間違いなくある程度複雑な計算装置があるはずである。パソコンかもしれないし、もっと大きな計算機の端末かもしれない。今は携帯電話である可能性も高いだろう。わざわざ紙に印刷して読んでいただいているのでない限り、この文章の背後には高速で演算を行い、サーバから得た情報を人間が読める形に直して表示する計算機の働きが存在しているはずだ。
こういう装置は、どれをとっても人間よりも計算が速くて、それはもう、百円ショップで買えるような電卓でも、私なんかよりもずっと素早く四則演算をこなす。よく言われることだが、こんなに速くて、こと計算に関しては私の望みもしない高みにいるはずの計算機が、どうして人情の機微がわからないのかと思う。いや、雑文のアイデアを考えたり、顧客に対して納期遅れの言い訳を考えているときの私は、なかなかちょっと計算機ごときにはできないことをしているという自負があるわけだが、テキストエディタに一時間くらいかけて書いてきた文章を、なんとしたことか一瞬の油断、ちょっとしたタイプミスで失ったりすると(例:コマンド+Aで文章すべてを選択した後に続けてなにかタイプしてしまう)、機械に対して思わずこの阿呆、と思う。そんなこと常識としてするわけないじゃないかと思ってしまうのである。私が計算機に期待するのはそういうことである。
今のパソコンはたぶん、上のようなフェイルセーフを備えるには十分な処理能力をもっていて、そうなっていないのはプログラムするほうでそういうふうに作っていないから、というだけのことだと思うが、こういうことを人間様のほうでいちいちプログラムするまでもなく、常識で判断して「今のはミスだよな」と判断してくれる機械というものを、人間はいまだに作れていない。どうやって作ればいいのかも、たぶんまだわかっていないと思う。
どうやって作ればわからないのだから、SFを書く上でも、どうやってコンピューターが意識を持つようになるか、というのはなにかアイデアを必要とする部分である。一番楽天的なものは、ハインラインにその筋のものがあったが、コンピューターが複雑になっていって、あるレベルを越えると意識が生まれる、というものである。普通は、そんなことはないと思うわけだが、実際問題として、脳に匹敵する複雑さのごちゃごちゃしたものをぽんと置いておくと、何かのきっかけでふっとそこに自意識が生じる、というのはありそうで面白い。もちろん、今のパソコンもインターネットも、規模や複雑さにおいてまだ脳に匹敵するくらいにはなっていないという前提である。
ところが、もしかして、と思うときがあるのだ。今のパソコンには、本当にまだ自意識は存在していないだろうか。
ここで、アイポッドという存在を思い出して欲しい。これは、アップルが発売している携帯用の音楽プレイヤーだが、これには容量の大きなハードディスクドライブまたはフラッシュメモリーが内蔵されていて、特に上位機種になると、よほどのコレクターでも、手もとのCDすべてを読み込んで持ち運ぶことができるようになっている。私が持っているのはその廉価版「アイポッドシャッフル」という、一等容量のセコいやつだが、ライブラリをパソコンにすべて読み込んでおいて、その一部をランダムに持ち運ぶという使い方をしているので、これはアイポッドを常にランダム再生しているのと変わらないといえば変わらない。
これのどこに意識があるかというと、いや、意識はないと思うのだが、これのイヤホンを耳に入れて毎日一時間半くらいを通勤に費やしていると、ときどき、奇跡のような瞬間があるのである。このアイポッドの中にある曲というのは、すべて私がどこかから買ったか、あるいはダウンロードして手に入れたものである。一度も聞いたことがない曲なんかないはずだし、実際、ほとんどの曲は歌手名も歌の名前も、はじめて聞いたとき自分がなにをしていたかまで(ときには)思い出せる。ところが、そうではないのだ。ときどきだが、イントロが始まって、耳に流れ込んで来た曲が、さあどうしたことか、あれこれ知らないぞ、なんてことがあるのである。これはびっくりする。自分の庭のようなものであるはずのアイポッドから聞いたことがない名曲が耳に飛び込んでくると、本当に、小さな奇跡がおきたような気がするのだ。
もちろん、これは真の意味での奇跡ではないし、ましてや自意識などではない。私の持っている「シャッフル」には今どんな曲を演奏しているかなどを表示するための、ディスプレイのたぐいがなにもついていないので、これをいっそう奇跡のように感じるだけで、普通のアイポッドを使っている人にはなんでもないことなのかもしれないとも思う。ただ、自分のライブラリが大きく複雑なものになるほど「聞いたことがない曲に出くわす」という確率は高くなるはずで、ということはつまり、これはシステムが複雑になった末、奇跡を起こせるようになってきている、一つの例ではないか。
まあ、そんなことはない。私がもっときちんと音楽を管理していて、すべての曲を知っていればこんなことは起こらない。たぶん、ちょっと私は音楽に関して冷淡なところがあるのだ。あるいは、音楽に対してすこしボケている傾向があるのだと思う。それでも、アイポッドがなければ気がつかなかった、手元の曲数が増えることによる、一つの質的な変化ではないかと思う。
さて、ところで、老人向けという触れ込みで、会話をする人形と言うものがときどき販売されている。ある程度、人間の言うことを判別することができ、また、たくさん会話パターンを持っていて、会話することができるというのだが、これについてはどうも、そんな阿呆なそこまでまだ科学は進んではいまい、と思うのである。実際、いくらなんでもこれは老人というものを馬鹿にしていて、早々に飽きてしまうようなものしか作れないと、そういうふうに思えてならない。
しかし、ここで上のアイポッドの例を考えると、うかうかとしてはいられないのではないかと思うのである。人工知能関連の科学が今の段階からあんまり進歩しないとしても、私のほうで勝手に基準が甘くなってゆき、こういう人形の会話に、おお、すげえ、と感動したり、あるいはいっそ、楽しいパートナーとして日々を送って何の不満もないという夢のような日がやってくるような気がしてならないのだ。特に、私が歳をとって、人形が昨日何を言ったか忘れがちになったりしたらどうか。
要するに私は将来、やくたいもない自動人形を話し相手にして日々を楽しく暮らし、つぎつぎと趣味にあった新鮮な曲をかけてくれるアイポッドに感動し、三日に一回は同じメニューになる日替わり定食をいつも初めて出会う気持ちで食べる日がやってくるという、そういうことなのかもしれない。毎日が新鮮な明日。なんだか少し楽しみなような気もする。